本論文は、『徒然草』の文学史的な必然性を解き明かすことを目指したものである。本論文は三部より成る。第一部では藤原孝道、第二部では阿仏尼、第三部では兼好の筆になるテキストをそれぞれ俎上に載せ、書記行為としての性格・共通性・特異性を論じた。この三人の間には、生年に各六十年程度の径庭があり、三者を分析することによって中世前期における書記テキストの実相、及びテキスト間の影響関係を浮かび上がらせ、『徒然草』を生み出すに至った書記行為の史的蓄積を闡明した。
第一部第一章「「語り」の代替としての書記テキストについて」では、如上の分析を行う前段階として、『徒然草』と非常に近似した性格を『紫式部日記』「消息文」の中に見出し、両者が日常の穏やかな語りを書記化したもの、すなわち対話の代替という性格を持つことを指摘した。「消息文」は、制御を余儀なくされる実際の語りの代替として要請されたものであり、実際の消息の如く読み手を限定することによって生じる私的・閉鎖的な言語空間の設定によって、書き手に憚ることない意見開陳を保障する存在であった。
本論文では、同種の性格を持つテキストを「消息的テキスト」と呼び、その特性を分析するとともに、中世における史的展開を追及した。まず第一部第二章「私的性格を有する楽書について」では、数多の消息的テキストを生み出した存在として、西流琵琶の宗匠であった藤原孝道に着目した。従来楽書は、実際に演奏する楽人のために記されたマニュアル的な存在と認識されていたと思しい。しかし孝道のテキストは、演奏者のエピソードや知られざる逸話などにかなりの紙幅が割かれており、消息的テキストに特有の筆の滑りが認められたのである。しかもこれらの傾向は、孝道という書き手の個性にのみ還元されるべきものではなく、師である父から娘へ宛てて、消息の如くに書き記したという設定こそが、書き手に筆の自由を保障したことを明らかにした。
続く第一部第三章「娘へのテキスト」では、前章で見た孝道の楽書の消息性を支える最重要な鍵として、実際には演奏することのない女性が受け手となっていることに注目し、娘にテキストを書き残すことの有する楽家における意味、及び消息的テキストの史的展開に与えた意義をそれぞれ考察した。娘のために平仮名を用い、語りかけるように記された孝道の楽書は、まさしく娘への遺戒であり、娘にとって有益なものを記すという点を記載の基準とした、極めて私的なテキストであった。かかる私的性格と、伶楽の師匠であった孝道の筆になるという専門性の高さとが、対話の代替としての書記行為を成り立たせていたのである。
第二部では、孝道のような道の専門家ではない者の筆になる消息的テキストを分析するべく、阿仏尼が書き記した諸テキストを分析し、それらが「消息文」より『徒然草』へと至る文学史的な流れの中に位置づけられるものであることを明らかにした。
第一章「『乳母のふみ』の消息性」では、まず『乳母のふみ』を俎上に載せ、このテキストが女房(母親)の手になる消息であり、同時に、専門性の捨象された評論という側面を有していたことを指摘した。第一部で言及したように、消息的テキストは芸道の口伝書の中に、書記行為としての蓄積を重ねていた。娘という明確な受け手を措定し、語りかけるように書き記すことで、師たる書き手は筆の自由を確保していた。『乳母のふみ』は如上の枠組みを利用することで、特定の専門に収斂しない、評論的な文章が記され得る可能性を証明した。言わば、消息的テキストの可能性を押し拡げたのである。
第二章「共感の希求―『うたたね』―」では、阿仏尼の残したテキストの中で、彼女が最も若い時期に書かれたとされる『うたたね』を取り上げ、彼女にとって「書く」ことは如何なる意味を有していたのか、『乳母のふみ』との共通性を視野に入れつつ論じた。『うたたね』は若き日の失恋と出奔を、物語的な虚構を交えながら日記的に記したものであり、求めても得られない共感を希求する思いが底流していた。そこには、書記テキストの持つ保存性・伝達性への信頼、すなわち場所や時代を越え、共感してくれる読み手を想定することができる書記テキストへの信頼が看取されることに言及した。
第三章「『十六夜日記』鎌倉滞在記の対話性」では、『十六夜日記』、中でも鎌倉滞在記を分析し、阿仏尼が恃んだ「書く」ことの有する力の本質についてさらに詳しく論究した。滞在記は、都の人との間で交わされた複数の往復書簡を、再構成することにより成り立っている。そこには、都の人とのつながりを、「文」という筆による対話に頼ることによって回復しようとする阿仏尼の姿を確認することができた。さらに、それが再構成され、再び都へ送り届けられる点からは、一対一の遣り取りのみに留まらず、一対多のつながりをも求める書き手の思惑がうかがえ、単なる対話の代替に留まらない、消息的テキストの発展形とも呼べる性格が見出せることを指摘した。
第三部では、第一部・第二部で検証した消息的テキストの諸性格を踏まえ、『徒然草』をそれらの史的動態が生み出した必然的存在と捉えるべく考察を行った。
第一章「『徒然草』「第一部」の文学史的性格について」では、序から第三十八段までのいわゆる「第一部」に着目し、その消息的性格を証明するとともに、このテキストが「同じ心」なる「見ぬ世の人」への消息として始発したという私見を提起した。「第一部」は、本来口頭でなされるべき対話の代替という性格を有しており、「見ぬ世の人」という都合の良い読み手を設定することで、多岐にわたる事象に対して私見を披瀝し続けたテキストであった。消息的テキストの枠組みを利用しつつ、実際には特定の読み手を持っていなかったからこそ成り立ち得た、消息的テキストの極北とも呼ぶべき存在だったのである。
第二章「『徒然草』における対話」では、『徒然草』「第二部」、中でも第三十九段から百段辺りまでを考察の対象とし、その「語り」の性格に焦点を当てて分析した。「第二部」は、一方的な私見の開陳ではなく、読み手との間に理想の対話を構築することを目指してなされた書記行為であり、その理想とは、第五十六段において兼好自身が述べているように、まず眼前の「一人」に絞って語り、結果として、自ずと周囲の「人あまた」を惹きつける類のものであったのである。さらに言えば、『徒然草』が筆による対話の代替である以上、その「人あまた」とは後の世の読み手をも意味しよう。「第二部」には、多くの読み手の存在を意識した書き手の自己抑制の跡が認められるのであり、『徒然草』の多様性とは、まさしく読み手の多様性のことでもあったことを闡明した。
第三章「『徒然草』における心」では、「第二部」全体を考察の対象に拡げ、テキスト中に散見される芸道の専門家への敬愛の所以を探りつつ、『徒然草』が、書き手が自らの心を常に対象化し続ける中で生み出されたテキストであった可能性について検討した。前章・前々章で確認したように、兼好にとっての理想の語りとは、眼前の「一人」との穏やかな対話であったと思われる。特定の宛先を持たずに始発した『徒然草』におけるその「一人」とは、まさしく書き手自身の謂に他ならず、兼好は自らを第一の読み手に措定し、自分と自分が「同じ心」に対話する、納得するために筆を執るという姿勢に至ったのではないかとの私見を提示した。書記行為の有する孤独性(及び、モノとして直ちに書き手の手から離れる独立性)を認識し、それを逆手に取る形で、自身との対話を試みたと考えられるのである。
以上、三部三章に亘る検討により、『徒然草』が『紫式部日記』「消息文」以降、中でも院政期以降に量産された消息的テキストの史的脈絡の中で生み出されたものであることを明らかにした。加えて、かかる文学史的動態に底流する、中世の人々が抱いた「文」への信頼の様も浮き彫りにした。