『行為と世界----初期ハイデガー哲学の研究』と題された本論は、主著『存在と時間』(一九二七年)に至るハイデガーの哲学を、ごく初期の論文「論理学についての最近の諸研究」(一九一二年)にまで遡りつつ、その「行為」に関連する概念性に着目して再解釈するものである。
一般に、二〇世紀の西洋哲学、或いは人文社会科学一般の大きな特徴は、「意識から行為へ」ないしは「実践的転回」と名付けられることがある。米国のプラグマティズム、英国の行動主義や日常言語学派、戦後ドイツのプラグマティーク等々、二〇世紀の哲学の内には、前時代の哲学が人間の意識や認知を第一の基礎として自己や世界について語ってきたことへのアンチテーゼが至るところに見いだされる。ハイデガーの哲学もまた、人間の行為さえも、意図や欲求といった心的状態や、普遍的な道徳法則への意志といった意識の領域へ還元する哲学の伝統に強く反対するものとして読むことができる。本論は、「意識から行為へ」と総括されうるこのような問題性に対してハイデガー哲学が寄与する諸論点を際立たせることを一つの狙いとする。
しかし、本論の主眼は、さらに進んで、「実践的転回」という限定に収まり得ないハイデガー哲学固有の意義と射程を解明することである。周知のように、ハイデガーの哲学は、存在者が何らかの仕方で存在するとはいかなることかを解明する「存在論」として構想されている。その限り、根本的に必要であるのは、単に一種の行為論としてハイデガー哲学の成果を判明にするというだけでなく、その成果がいかにして存在論という最も普遍的な学の刷新という大胆な意図に先鋭化されるのかを見定めることである。言い換えれば、ハイデガーにおいては、実践と理論の区別を超えて一般にわれわれが存在者をそれとして発見する仕方が一種の「行為」として解明されようとしており、行為をめぐる概念性はここで存在論的な含蓄のあるものへと練り上げられているのである。
行為が存在論的現象として考えられていることと相俟って、ハイデガーは、理論と実践の区別を彷彿させる「行為」という標準的な語彙を、「本来的」な行為という意味で限定的にのみ用いている。本来的であるとは、その行為において世界内部的な存在者がそれとして曇りなく発見されるという程のことであるが、するとここには同時に、非本来的な行為もあるということが含まれている。こうした事情を反映して、ハイデガーによって独自に再編成された行為の概念群は次のように整理される。まず、一般に存在者へとかかわる志向的な「ふるまい」という中立的な語があり、次に、このふるまいは、道具的存在者への「配慮的気づかい」ないし「交渉」と呼ばれる<実践的>様態と、事物的存在者への「理論的なふるまい」と呼ばれる<理論的>様態に区別される。これらの志向的な<行為>は、存在者との根源的な存在連関を失うという「非本来性」の傾向を孕んでおり、「行為」という本来的な志向的ふるまいを現存在が取り戻すことで克服される可能性をもつ。
これらの諸概念を駆使して繰り広げられるハイデガーの「存在論」を読み解く仕方にはいくつかの候補が考えられるが、本論では、特に「世界」や「存在者」という存在論的見解にとっての基礎カテゴリーの根本的刷新という側面からアプローチする。とりわけ、ハイデガーが伝統的に支配的な存在論的カテゴリーである「実在性」を新たに塗り変えようとしていたことを、彼の存在論のもつ様々な提案----対象世界から環境世界へ、事物的存在性から道具的存在性へ、認識作用から配慮的気づかいへなど----を理解するための鍵として示していく。その概略を以下に記す。
第一章「作用から行為へ----初期ハイデガーにおける意味理論とその含意」においては、まず、反心理主義者として出発した初期のハイデガーが、「意味」の概念をフッサールと共に志向性理論の内部で解明する中で、志向的な「ふるまい」の本質をフッサール的な意味作用から<状況内行為>へと独自に捉え直すことを明らかにする。初期のハイデガーは、志向的ふるまいが、フッサールのように主観の自己責任においてではなく、時間的-環境的に文脈化された状況の内ではじめて有意味に遂行されることを強く主張している。「作用から行為へ」と名付けられうるこの現象学的転換の成果は、世界を「有意味性」として、また人間的生の自発性を「気づかい」として再規定することに集約されるのだが、その際、本論が特に注意を払うのは、ハイデガーにおける世界の有意味性は、主観の意味付与作用を必要とせずに、世界自身が自己構造化するものだということである。つまり、世界は単に主観によって<見られる>対象の総和ではなく、行為者としての現存在に一定の重要性において関与し、特定の行為を促すような構造をもっている。この世界概念の転換は、初期ハイデガーによる、フッサール批判だけでなく、ディルタイの抵抗概念受容のポイントをなしている。
第二章「リアリティーの新たな概念化----『存在と時間』第一篇における世界内存在の分析をめぐって」では、『存在と時間』第一篇の世界内存在の分析が、世界を外部世界として解釈する古典的な「実在性」概念の批判という動機に突き動かされていることを明らかにする。有意味性の世界や、その世界を構成する道具的存在性は、それとしては事物的に存在し、道具的な有用性や実践的な意味を人間によって投影ないし付与されることを待っているという図式では決して理解しえない。むしろ、道具的存在者とは、自らが<何のために>あるのかを自己呈示し、それに遭遇する現存在の行為に理由を与え、行為を促すような存在者である。つまり、ハイデガーは、世界が主観から<独立に>構造化され存在することを積極的に認めながらも、このことを、主観と<無関係に>外部世界が実在すると解釈するのではなく、むしろ、世界が<何のために>あるのかを独自に編成し、呈示してくるがために、現存在はその内で配慮的に気づかい、存在する可能性を得ると考えているのである。さらに,本論では、道具的存在者は<それ自体>で存在する限り、現存在によって殊更に見られることはないという「目立たなさ」を構成的性格とするというハイデガーの斬新な見解に着目し、まさにこの性格こそが、<知覚されなくとも世界は実在する>という通常の意味での実在論テーゼの実存論的根拠をなすという解釈を提出している。
第三章「頽落論の存在論的意図」では、その存在論的な意図が従来十分解明されて来ていないハイデガーの頽落論が、第二章で論じた伝統的な実在性概念批判として構想されていることを論じる。空談や好奇心といった新奇な用語を駆使して展開される頽落の議論によってハイデガーが企てているのは、道具的存在者への配慮的な気づかいが外部世界に実在する事物的存在者を<見る>という準-理論的なふるまいへと転化する現存在の傾向を実存論的に解明することである。すなわち、現存在が、道具的な用途性においてではなく一般的なタイプや性質において存在者に言及する理論的なふるまいに必然性をもって傾くのは、他者と分かち合うことのできる一般的知識を真なる前提とした実践的推論を形成し、それに基づいて他者と共有された----各人に固有ではない----行為パターンの形成をなす、公共的でポリス形成的な現存在の共同存在に根拠をもっている。このような頽落論の新解釈を、本論では、『存在と時間』準備期の特にアリストテレスについての諸講義を参照することで導きだしている。
第四章「ハイデガーと根拠への問い----『存在と時間』第二篇における本来性の概念をめぐって」では、現存在の本来性を、公共的に真と看做された知識の根拠を問いつつ、自らに固有な行為を決意して遂行するあり方として明らかにしていく。この解釈の確証のために本論では、『存在と時間』の「選択」および「根拠」の概念とともに、これらの論及のモデルとなっているアリストテレスのフロネーシスに対するハイデガーの解釈を検討している。それらを通じて本論がこれまでのハイデガー研究に欠けている解釈上のポイントとして提起するのは、一般的規範に従って平均的に行為する非本来的自己から自ら行為の根拠を問う本来的自己への「実存的変様」は、準-理論的なふるまいから配慮的に気づかいつつある存在者との根源的な----存在者をそれが<何のために>あるのかという道具的存在性の根拠から暴露する----存在連関へ立ち戻る<存在論的>な変様だということである。このようなハイデガーの根拠への問いは、決して基礎付け主義の実存論的な繰り返しではなく、むしろ、最も固有な自己なるものも自らが選択しうる諸可能性自体を選ぶことはできず、公共的に解釈されたものを聞き学んで獲得するしかないという現存在の被投性の強調にこそ主眼がある。本論ではこの点を、ハイデガーの良心論が、自己基礎付け的な反省的意識に依拠したカント倫理学の批判となっていることを示すことで、明瞭にしている。ハイデガーは、根拠付けについて語ることで、理性的存在者の卓越した能力を思われているものに立脚するのではなく、むしろ全く逆に、人間的現存在の「非力さ」へとあらゆる哲学的考察の出発点を向け変えるよう要請しているのである。