本論文は、コーカンド・ハーン国期(18世紀初頭頃~1876年)のフェルガナ盆地において、「偉大なる導師(マフドゥーミ・アァザムMakhdūm-iAam)」の尊称で知られるナクシュバンディー教団の高名な指導者、ホージャ・アフマド・カーサーニー(1542年没)の子孫であるマフドゥームザーダMakhdūmzādaと呼ばれた集団が、ハーン国政権と結んだ関係、地域社会で果たした役割の実態を明らかにすることを目的とする。
中央アジアにおいては、ナクシュバンディー教団の指導者たちは大きな政治的影響力を有し、歴代政権と深く関わっていた。しかし、個々の著名な指導者の政治、経済活動はよく研究されてきたものの、後代の指導者の世襲後継者たちが、集団として各政権や地域社会との間で持った関係、あるいは集団内部の構造に関する包括的な研究はなされてこなかった。
本論文では、年代記等の史書の他、聖者伝や文書史料、現地での聞き取り調査の成果を用い、マフドゥームザーダの活動の全体像を解明することを目指す。
本論文は第1部(第1、2章)、第2部(第3、4、5章)、および補論から構成される。
第1部では、主にコーカンド・ハーン国成立前のマフドゥームザーダの活動の展開を追う。第1章では、当時の中央アジアにおいては、イスラーム的権威とは、ナクシュバンディー教団の指導者とその子孫たちが体現する複合的な聖性であったことを考察した。ナクシュバンディー教団は15世紀以来急速に勢力を伸ばしたが、教団の指導者たちは次第に世襲後継して聖なる血統を標榜する「聖裔」になっていった。とりわけ、マフドゥームザーダたちは、フェルガナ盆地のカーサーンに元来の出自を持ち、サイイドであると同時に、フェルガナ盆地に由来する聖者の子孫としても認められていたが、マフドゥーミ・アァザムの没後コーカンド・ハーン国が成立する前は、彼らは継続的にフェルガナ盆地で活動していたわけではなかった。
第2章では、マフドゥームザーダの一人で、17世紀末にカシュガルを実質統治した「カシュガル・ホージャ家」の一員、アーファーク・ホージャ(1694年没)の息子の一人、ホージャ・ハサン(1726年没)のムガール朝インドを経由した西トルキスタンへの布教の旅について未開拓の聖者伝や文書史料を用いて検討した。ホージャ・ハサン自身に関する聖者伝からは、彼が17世紀末~18世紀初頭に西トルキスタン各地を旅してナクシュバンディー教団の布教に務めたこと、特にコーカンド・ハーン国草創期のフェルガナ盆地ではジュンガルの侵攻に対して「聖戦」を企て、多くのムリードを獲得したこと、その際に、ナクシュバンディー教団の改革派、ムジャッディディー派のシャイフたちや地元のスーフィー詩人たち、地方支配者やコーカンド・ハーン国初期の君主たちと交流を持ったことが窺えた。ホージャ・ハサンはヒサールのカラタグで、ホージャ・イスハーク・ワリーの子孫により殺害されたが、それは従来指摘されたような「カシュガル・ホージャ家」の内部二派の対立によるものではない。むしろ、マフドゥームザーダ一族がサマルカンドとカシュガルに分かれて発展した結果、両者の間に何らかの摩擦が生じた可能性が指摘できた。カラタグにも、フェルガナ盆地にもいくつかのホージャ・ハサンを奉ったと思われるマザールやカダム・ジャーが現存し、彼の残した影響力の大きさを物語っている。
第2部では、マフドゥームザーダとコーカンド・ハーン国の君主及び地域社会との関係に焦点をあてる。まず、第3章では、コーカンド・ハーン国成立の背景を検討し、ハーン国成立後の君主の称号と系譜について考察した。フェルガナ盆地では17世紀に入ると次第にブハラ・ハーン国による直接統治が及ばなくなり、各地に多くの地方統治者が割拠するようになっていたことが文書史料から窺えた。コーカンド・ハーン国を興したミン部族の支配者たちは、徐々にフェルガナ盆地全域に勢力を伸ばしたが、18世紀を通じて名目上はブハラ・ハーン国の宗主権を認めていた。当時は、東西の隣接地域の政情不安ゆえに外部勢力の干渉は比較的少なかったが、ジュンガルの侵攻は見られ、それは彼らにとっての大きな脅威だった。一方で、このような政治情勢ゆえに、フェルガナ盆地には主にサマルカンドと東トルキスタンから多くの避難民が移住した。コーカンド・ハーン国の君主たちは、勢力を拡大するにつれ、自らの権威付けのためサイイドを名乗った。コーカンド・ハーン国の歴史書に記されたハーン家の系譜は、初期の世代ではサイイドを、また後代ではナクシュバンディー教団の指導者たちとの近しい関係を主張するものであった。また、あるファトワー文書の検討から、君主たちが女系でサイイドを主張した具体的プロセスを追うことができた。
第4章では、マフドゥームザーダのなかでも、ハーン国政権において君主たちと極めて近い関係にあったサマルカンドからの亡命者一族について分析した。君主と一族の直接的な関係は、18世紀の前半にサマルカンド方面からマフドゥーミ・アァザムの息子の一人、ホージャ・イスハーク・ワリーの子孫であるイーシャーン・アルトゥク・ホージャが亡命してから始まった。ナルボタ・ビーからウマル・ハーンまでの三人の君主たちは、一族との婚姻関係を緊密にするとともに、彼らを自らの統治に参加させた。その背景として、ハーン国初期にはアミール層が大きな力を有しており、君主の権威が確固たるものではなかったことが挙げられる。君主たちはアミールに代わる支持者としてマフドゥームザーダを厚遇したと考えられる。一族は繁栄し、アミールの対抗勢力としての役割を十分に果たしたが、それは彼らが君主たちの地位をも脅かす程度にまでに至った。ムハンマド・アリー・ハーンはマフドゥームザーダを追放したが、その理由は、いくつかの事例から、君主と彼らの関係が、政治的対抗者のそれになっていたためであることが看取された。
第5章では、アーファーク・ホージャの女系の子孫を称するマフドゥームザーダ集団が、マルギランを本拠地として展開した活動について分析した。彼らの始祖は、カシュガルからの脱出後、インドでムジャッディディー派のシャイフに師事し、師の命によりマルギランに到来したと伝えられる。以来、時代を経るごとに、一族はフェルガナ盆地全域に活動範囲を拡げていった。彼らは、君主から灌漑事業の統率を任され、それを機に盆地の各地へ進出したことが分かった。また一族の一人、ワリー・ハーン・トラは、ハーン国の最末期に、ロシア軍に対抗して民衆蜂起を組織した。さらに、19世紀末にロシア帝国の支配に対してムスリム民衆の反乱を起こしたドゥクチ・イーシャーンの師であるスルターン・ハーン・トラも、この一族に属することが分かった。彼ら一族がマルギランから東方へ勢力を拡大した背景には、当該地域が東トルキスタンからの移民の集住地域であったことが指摘できる。一族のメンバーは、住民に対して指導力を発揮し得たため、君主たちは彼らに事業を委託したものと考えられる。彼らは19世紀末まで、その権威ゆえに地域社会を統率し得たのである。
補論では、前章までの検討により、マフドゥームザーダたちが、フェルガナ盆地へのムジャッディディー派の伝来にかなり初期から何らかの関わりを持っていた可能性が高いことを念頭において、フェルガナ盆地における同派の発展の解明を試みた。民間所蔵のイルシャード・ナーマの比較検討により、同派のコーカンド・ハーン国への組織的な伝導は、19世紀前半に起こったことが分かった。それに貢献した一部のシャイフは、19世紀初頭に政権で影響力をもつ人物たちであった。すなわち彼らもまたムジャッディディー派に連なることが明らかになった。また、同派の活動の一部は、すでに18世紀の初頭にフェルガナ盆地のナマンガン地方に及んでいた可能性があることも指摘できた。このことは、第2章で検討したホージャ・ハサンの活動や、第5章で検討した初期のマルギランのトラたちの動向とも相互に関連し合うことになる。
コーカンド・ハーン国では、ハーン国成立時のフェルガナ盆地の社会的な情況ゆえに、マフドゥームザーダの活動の余地があったと言える。ハーン国で活動したマフドゥームザーダにはいくつかの集団があり、それぞれの活動時期は異なるものの、彼らの活動は多くの場面で政権の変化、発展と連動していた。政情が安定していた時期にはハーン国の枠組内で活動を行ったが、国が政情不安に陥った際には民衆を指揮して反乱を主導するなど、君主に代わる統率力を発揮したと言える。
これをマフドゥームザーダたち自身の側から見るなら、コーカンド・ハーン国期のフェルガナ盆地は、概してサマルカンドやカシュガルでの失権の回復の場であったと位置付けることができる。彼らの一部の家系はマルギランを本拠地としてフェルガナ盆地全域に活動を展開するなど、フェルガナ地域に根ざした聖裔になっていった。このことはまた、聖裔たちの高いポテンシャルと自由な移動性という特徴を示している。
一方、これを政権の側から見るなら、マフドゥームザーダたちは、元来何ら血統上の権威も持たない新興勢力のミン部族がフェルガナ地域を支配するための重要な支持者となり得たと言える。マフドゥームザーダたちに政権での要職を与え、灌漑事業の指導を任せるなど、政権として彼らに数々の活動の場を与えることで、多集団から成る地域社会を統合し、新たな秩序を形成する一助としたと考えられる。
マフドゥームザーダたちの下位集団の相互関係、彼らと他の聖裔との関係は、マフドゥームザーダの占めた位置を明確にするためにも重要な問題点であるが、これについては十分に検討できたとは言えない。これらの問題は、今後の研究の責めとしたい。