本稿は古代国家と地域社会の交点、すなわち「地方」に展開した祭祀制度を取り上げるものである。著名な祈年祭などの祭祀は勿論、それ以外に古代国家が設けた「地方」祭祀の構造を明らかにすることなしに、当時の祭祀体系に迫ることはできないだろう。また地域社会にとっての祭祀の意義・機能を考えていく上でも、まず制度の理解と蓄積が必要である。そこで本稿では、主に文献資料に基づく検討によって、古代国家の対「地方」祭祀、および「地方」内の祭祀制度がいかなる構造を持ち、いかに展開していくのかを明らかにしたい。具体的には以下の三部構成をとる。

序章「古代国家と「地方」祭祀」では祭祀研究の現状と問題点を整理した上で、「地方」制度史研究の必要性を説く。

第一部「対「地方」祭祀の成立」では、古代国家において「中央」と「地方」を結ぶ祭祀制度がどのように形成されたのかを検討する。成立の過程のなかに、その制度の意図は集約的に表れるはずである。
第一章「律令制祭祀の形成過程」では、祈年祭などに見られる「班幣」という祭祀形態の成立段階を問題としながら、七世紀後半における律令制祭祀の形成過程を論じる。
これまでの研究では、祭祀は漠然と古いとされたり、あるいは律令が整備された七世紀後半の天武・持統朝のころに形成されたと大まかに推測してきた。しかし、各祭祀の構造や担当官司の関わりに注目してより詳細に検討するならば、祈年祭などの国家祭祀は持統朝にようやく成立したこと、それは天武朝段階での広瀬・龍田祭という大和地域の祭祀を拡大した形態であること、その背景には神祇官という官司の成長があったこと、が明らかとなる。天武朝と持統朝では大きな段階差があり、国家制度の整う最終段階において、「地方」を「中央」に結びつける祈年祭が成立するのである。こうした段階的な変遷は、祭祀だけの問題ではなく、国家の形成と宗教の問題を考える上でも重要だろう。
第二章「天武の親祭計画をめぐって」では、天武七年(678)に計画された天皇の親祭計画に注目し、天武朝段階において構想されていた祭祀体系と、大宝律令に結実する神祇令の祭祀体系が大きく異なることを明らかにする。神祇令では天皇は天神地祇(地方の諸神社)を祭らず、すべて神祇官に委ねたが、天武朝段階では天皇の親祭と王臣らの遣使という二つの形態が構想されていた可能性がある。結局計画は頓挫し、天皇の死とともに祭祀体系は大きく転換して、持統朝において神祇令の体系が確立した。これは第一章で見た天武・持統朝間の段階差とも対応しよう。その間、天神地祇(諸神社)は天皇によって祭られる存在から、臣下(神祇官)によって祭られる存在へと「格下げ」されている。このように対「地方」祭祀は七世紀末に至ってもなお可変的・流動的であり、国家制度が整った後に、持統朝そして大宝律令によってようやく確立すると考えられる。

第二部「「地方」祭祀の構造」では、「地方」内に設定された官社・神戸という二つの制度自体について検討し、「地方」に存在した祭祀制度の全体的な把握を目指す。官社や神戸は、主に「中央」での祭祀に伴って設定された制度ではあるが、これらの制度自体が「地方」内において果たした役割に注目したい。
第三章「律令国家の地方祭祀構造」では、官社・神戸の制度自体が「地方」内に国家による祭祀制度を創り出すことを論じる。従来、ともすれば「中央」での祭祀と「地方」内の私的な祭祀とが二項対立的に捉えられてきたが、官社を支える氏人たちの租税の使われ方や法制資料を見直すことで、租税の収取にともなう国司の祭祀が存在したことが明らかになった。租税と祭祀は、地域社会の現場で、まさに表裏一体の関係にあったのである。またこれを官社制度の地方祭祀構造と名づけ、新たな国家祭祀の範疇を設けることで、律令国家が目指した祭祀制度の全体的な構造についても明らかにした。
第四章「古代神戸の性格と分布」では、官社制度を経済的に支える神戸の制度について検討する。神戸は特定の官社にのみ設定された戸であるが、未解明な部分が多い。そこで神戸の分布状況を記した「大同元年牒」を丹念に整理することを通じて、神戸の持つ新たな性格を導き出した。実は神戸は属する官社の分布によって設定のされ方に大きな違いがあり、畿内の官社に属する神戸が畿外にも置かれ、かつ神祇官による「中央」での祭祀をも財政的に支える構造になっていることが知られる。これにより、神戸は「中央」「地方」双方に関わる制度であることが明確になった。

第三部「「地方」祭祀の展開」では、対「地方」祭祀、そして「地方」内の祭祀制度がどのように展開していくのか、中世への展開も見通しながら考察する。
第五章「祭祀制度の展開と都鄙交通」では、祈年祭や名神祭などの「中央」と「地方」を結ぶ祭祀制度がどのように展開していくのかを論じる。かつてはこれらの祭祀は八世紀後半以降に崩壊していくと見られていたが、近年ではむしろ神社行政の国司への「委任」により、国家の統制が浸透していくと考えられている。本章ではさらに、それらが本来担っていた理念と朝廷・国司のレベルで果たす役割を、それぞれに区別しながら考えた。その結果、おおよそ九世紀中葉を画期として、対「地方」祭祀が解体していき、その一方で「地方」内の祭祀が発展していく過程が具体的に明らかとなった。
第六章「国司祭祀の成立と展開」では、「地方」内の祭祀制度を担う国司に注目し、九世紀後半に国司を頂点とする新たな宗教秩序が形成されていくことを論じる。祭祀の場、場の管理、祭祀の財源等、九世紀中葉までに国司の役割は徐々に大きくなるが、それ以降単なる朝廷の命令の代行ではなく、国司は自律的に祭祀を行うようになっていく。またそれを支えた財源として、国儲・公廨が見出された。さらにこの財源は十世紀中葉に大きく変化し、公廨の加挙という仕組みを媒介として中世的収取形態へと漸次変容していく。これは降って中世の国衙祭祀の前提となる問題でもある。古代から中世への展開はなお未解明であるが、研究の少ない九・十世紀の国司の祭祀を明らかにした。

終章「権力と祭祀―古代から中世へ―」では以上の検討をまとめつつ、「中央」における祭祀が実際の支配制度に遅れて拡大していく問題(第一・二章)や、租税の収取の現場で祭祀が機能すること(第三・六章)について考えた。

以上、本稿は古代国家の「地方」祭祀を取り上げ、その成立(第一部)と、構造(第二部)、そして展開(第三部)について制度面を中心に検討し、地域社会に展開した祭祀の意義の一端を明らかにした。