謙譲の美徳が根底にある日本社会にあっては、自分のことは控えめに呈示すべきという考え方が一般的である。一方、欧米、特に北米を中心として発展してきた社会心理学においては、人々が、過度に自己を高く評価する傾向が一貫して指摘され、それは、人々が自尊心を維持・高揚しようと動機づけられているからだとする見方が主流であった。したがって、近年、比較文化的研究が盛んになるにつれて、自分について控えめで批判的な見方を示す日本人の姿が明らかになり、新たに説明すべき対象として注目を集めてきている。特に、そのような日本人の姿は、自尊心維持・高揚動機の欠如によるものなのか、それとも、謙遜すべきという社会規範が存在するために、本来の高い自己評価を示さないだけなのかという点について、多くの研究と議論が重ねられてきている。そのような学問的な流れの中で、本論文は、今まであまり扱われてこなかった問い―日本人がなぜ自己卑下的な自己評価を表出する(自己卑下的自己呈示を行う)のかという問い―に答えることを目的とする。従来の研究では、日本人の自己卑下的自己呈示(以下、自己卑下呈示)は、主に謙遜すべきという規範によって説明されることが多かった。しかし、なぜという問いに答えようとするとき、それでは、なぜそのような規範が存在するのかという問いを残すことになってしまう。そこで、本論文では、その自己卑下呈示規範の生成基盤について検討し、どのような社会では自己卑下呈示が優勢となり、どのような社会では自己高揚呈示が優勢となるのかについて、社会的ネットワークへの適応という視点から、1つの説明モデルを提示することを目的とする。
まず、第1章および第2章で、これまでの研究を概観し、目的を述べたのち、第3章において、自己卑下呈示をどのように捉えるかを明らかにした。人々の相互作用は、さまざまな資源を交換し合い、お互いに利益を得る社会的交換として捉えることができる。このような見方に立つ社会的交換理論によれば、例えば、ある人iの持つ優れた資質は投入資源Iiとして見なすことができ、それは、他者jに渡ることにより、jにとっての交際の楽しみや知的な刺激、問題解決への助けなどさまざまな交換価値Vj(Ii)となる。それに対し、jも賞賛や好意という返報を与えるため、iも交換利益を得ることができる。このような見方に立つとき、自己呈示という行為は、相手に対して、自分の持つ資源の交換価値がどれくらいであるかを示す役割を果たすと考えた。そして、本論文では、呈示者iの持つ資源Iiのjにとっての実際の交換価値Vj(Ii)よりも、iの呈示した価値Vpi(Ii)が低いとき、それを自己卑下呈示であるとし、iの呈示した価値Vpi(Ii)のほうが高いとき、それを自己高揚呈示であると定義する。このとき、自己卑下呈示をされた相手jは、実際にはiからVj(Ii)の価値を得ているが、iが自分の資源の交換価値がそれほどではないように言うので、Vj(Ii)よりも少ないVpi(Ii)分の返報をすればよい。一方、自己高揚呈示をされた相手jは、実際にはiからVj(Ii)の価値しか得ていないのに、iが自分の資源の交換価値がそれよりも優れているように言うので、Vj(Ii)よりも多いVpi(Ii)分の返報をしなくてはならない。ここから、以下のように自己卑下呈示・自己高揚呈示の効用を整理することができる。1)一回一回の交換においては、自己高揚呈示者のほうが、自己卑下呈示者よりも有利な交換比で交換を行うことができるが、2)相手が交換相手を選択することができると考えれば、相手に有利な交換を行う自己卑下呈示者のほうが、自己高揚呈示者よりも相手に選ばれやすい。しかし、呈示者iの資源の実際の交換価値Vj(Ii)が相手に知られていない場合には、高い価値Vpi(Ii)を呈示したほうが、実際の価値Vj(Ii)も高い可能性が高く見積もられるため、3)未知の相手には、自己高揚呈示者のほうが、自己卑下呈示者よりも交換相手に選ばれやすい。
第4章では、こうした自己呈示の定式化についての妥当性を検討するための研究1~4を報告している。まず、研究1では、大学生に自己卑下呈示を行った経験について自由に記述してもらい、本論文の定義に沿った自己卑下呈示(社会的交換関係において自分について低く言うことで、実際の価値以上の見返りを得ないようにする自己呈示)が実際に多くの人々に行われていることを確認した。次に、研究2では、回答者が、自己卑下呈示者、自己高揚呈示者として認識した人について自由記述をしてもらい、人々が、実際の価値Vj(Ii)に対して相応以下の見返りしか受け取らない人を自己卑下呈示者として認知し、相応以上の見返りを得るのが当然であるとする人を自己高揚呈示者として認知していること、そして、自己卑下呈示者はその後の関係を望まれ、自己高揚呈示者はその後の関係を望まれないことを確認した。研究3では、シナリオ実験により、シナリオ中で一定に操作した呈示者の実際の価値Vj(Ii)を基準に、それよりも低い価値Vpi(Ii)を呈示する自己卑下呈示者と、高い価値Vpi(Ii)を呈示する自己高揚呈示者に対する回答者の印象を検討し、自己卑下呈示者のほうが相互作用を望まれることを確認した。研究4では、スノーボールサンプリングという方法を用いた郵送調査により、ダイアド・データを取得し、一般成人の実際のつきあいにおいても、実際に自己評価が自己卑下的であり、また自己卑下呈示者としてみなされるほど、相手に相互作用を望まれるという効用があることを確認した。これらの結果は、本論文における自己呈示の定義と定式化の妥当性を保証するものである。
次に、先に整理した自己卑下呈示・自己高揚呈示の効用に基づいて、なぜ、ある社会では自己卑下呈示が優勢となり、ある社会では自己高揚呈示が優勢となっているのかについてモデルを構築した。第5章では、社会によるネットワーク構造の違いは所与とした上で、次のような理論予測を立てた。
1.「直接経験と評判伝播で知りうる他者の数(評判伝達範囲と呼ぶ)に比して、取引可能性のある人々のサイズ(潜在的取引範囲と呼ぶ)が大きい」ネットワーク構造がある社会では、未知の他者との取引が多くなるので、自己高揚呈示者に有利となるだろう。
2.「潜在的取引範囲に比して、評判伝達範囲が広い」ネットワーク構造がある社会では、既知の他者との取引が多くなるので、自己卑下呈示者に有利となるだろう。
この理論予測は、研究5、6の2つの研究によって検証した。研究5では、エージェント・ベースト・モデルのコンピュータ・シミュレーションを行い、エージェント数が少ないほど、そして、エージェントが評判を伝達する人数が多いほど、自己卑下呈示戦略がシェアを増加させることが明らかになり、理論予測は支持された。また、研究7では、日本国内の村落部(新潟県旧栃尾市)と都市部(東京都板橋区)を比較する郵送調査を行い、村落部の人ほど、潜在的取引範囲に比して既知の関係が多いネットワークを持っているために、自分の実際の価値Vj(Ii)が他者に知られていると考え、自己卑下呈示を行っているという、モデルの妥当性を支持する結果が得られた。
第6章では、第5章では所与としていたネットワーク構造の生成過程も組み込んだモデルを構築し、近隣集団外部での交換インセンティブや、近隣集団を離脱するコストに応じて、人々のネットワーク形成戦略としての近隣集団離脱率が決まると予測した。さらに、
3.近隣集団からの離脱率が高いほど、「評判伝達範囲に比して潜在的取引範囲が広いネットワーク」が形成され、そのようなネットワークで有利な自己高揚呈示が優勢となる。
4.近隣集団からの離脱率が低いほど、「評判伝達範囲に比して潜在的取引範囲が狭いネットワーク」が形成され、そのようなネットワークで有利な自己卑下呈示が優勢となる。
との予測を導いた。この理論予測は、研究7、8の2つの研究によって検証した。研究7では、エージェント・ベースト・モデルのコンピュータ・シミュレーションを行い、近隣集団外部での交換インセンティブが高いほど、そして近隣集団を離脱するコストが低いほど、エージェントが近隣集団外部での交換を行うようになり、そのようなネットワーク構造の下では、自己高揚呈示戦略がシェアを増加させるという、ネットワーク形成戦略と自己呈示戦略との共進化プロセスが存在することを明らかにした。また、研究8では、千葉県内で6市町、54投票区を比較できる設計で郵送調査を行い、近隣集団からの離脱率が低い地域ほど(人々のつきあいのある人のうち、同じ居住地内の人の割合が高い地域ほど)、自己卑下呈示が優勢となっていることが明らかになり、理論予測を支持する結果が得られた。
日本人が自己卑下呈示を行うのはなぜかという問いに対して、本論文の知見をあてはまると、日本人に自己卑下呈示が優勢なのは、日本人が近隣集団内部で多くの交換を行い、評判伝達範囲に比して潜在的取引範囲が狭いネットワークを持っているためであるという回答が得られる。反対に、北米人の自己呈示が自己高揚的であるのは、彼らが近隣集団を離脱して交換を行うため、評判伝達範囲に比して潜在的取引範囲が広いネットワークを持っているからだという予測が立てられる。本論文では、日本国内においてモデルの妥当性を検討することを目的としたが、今後の課題として、日本国外においてもネットワークと自己呈示方略との関係について検証し、国を超えた文化差を説明する上でのモデルの妥当性を検討することが必要となるであろう。