本論文は、ローベルト・ムージルの長編小説『特性のない男』を題材にして、ムージルの詩的人間学を描き出そうとするものである。この作品の題名<特性のない男>の中に、近代的な認識主体としての<我(Ich)>概念の解体と再構築が暗示されているということを考察の出発点に置いて、主人公ウルリヒ(Ulrich)の名の中にアナグラム的に潜んでいる<原-我(Ur-Ich)>という理念が展開してゆく過程を、ムージルの詩的方法に則って、分析・検証する。<原-我>は、原初的な人間の在り方を指すもので、カバラの伝統におけるアダム・カドモン、プラトンの『饗宴』において語られる己の半身を探し求めて合一を果たした人間の姿、ピグマリオン伝説、ヘルマフロディトス、あるいはエジプト神イシスとオシリスといった様々なイメージで把握されうるのだが、主人公のウルリヒとアガーテ兄妹においては<シャム双生児>のイメージとなって現象してくる。そして、アダム・カドモンが<生命の樹>という聖書にあるイメージに重ねられるのと同様に、『特性のない男』における<原-我>もまた<生命の樹>のイメージに結びつく。つまり、「創造は暴力と愛から生じる」(S.591)というウルリヒの言葉から明らかである<暴力>と<愛>の二項対立は、ムージルによって<樹>のイメージを付け加えられて、<暴力の樹>と<愛の樹>という対概念になり、この二本の樹が<生命の樹>を構成するのである。こうした二項対立はモデルネ文化において共有された合理主義と神秘主義の対立のヴァリエーションでもあるのだが、ムージル文学においては、<暴力の樹>と<愛の樹>が補完し合っている点に特徴があり、そうした総体が<生命の樹>と呼ばれる。
ムージルは、<生命の樹>を描き出すために、<暴力の樹>と<愛の樹>といった二項対立を詩的方法でもって乗り越えようとする。彼は、言語で表現しえないものを表現しようとするために、やはり言語を用いざるをえないのだが、その際に一つ一つの語に特殊な意味合いを込めることによって、言語表現の限界に挑んだ。まず、「類推」という一般的な思考法を、「魂の滑りゆく論理」(S.593)と言い換えて、ある対象から際限なく別のイメージを紡ぎ続ける運動を、「類推」という思考法に付与した。こうしてムージルの詩的方法に属するようになった思考法は、比喩だけでなく、さまざまな局面にも浸透するものとなる。次いで、ある種の決まった語群を適度に配置して、言語によっては表現しえない事柄を陰画的に浮かび上がらせる。さらに、別の分野――哲学・心理学・宗教など――で用いられるイメージを借用して、それらのイメージに独自のニュアンスを与えることによって、<人間>に関するイメージを再構築していった。まさにこの点において、ムージルの作品は「詩的人間学」を呈示するのである。
<暴力の樹>はいわゆる男性原理的・父権的な現実世界を統べるもので、これまでの主人公ウルリヒの<生>を駆り立ててきた。こうした現実世界を批判的に眺めるウルリヒのまなざしは、法律学者の父親に対する批判的まなざしに他ならず、両者の関係の中に、<父>と<子>の対立構造を見出すことができる。<父>にあたるのはウルリヒの父親、カカーニエンと名づけられるオーストリア帝国、あるいは神であり、それぞれ、ウルリヒ、カカーニエア人たち、信者たちが<子>に相当する。この構造において<父>の<法>が<子>を支配していて、<子>は<父>に従いながらも、どこかで<法>を破る「犯罪者」への憧れを抱いている。人々のそうした羨望の的になるのが、娼婦殺しのモースブルッガーである。ウルリヒの場合、彼がモースブルッガーに寄せる強い関心ゆえに、両者は無意識裡に<分身>関係になって、その結果、モースブルッガーに重ねられていた「神の子」のイメージがウルリヒに付け替えられて、ウルリヒに救世主としての役割が、あるいは「天才」としての独創的かつ創造的な役割が期待されるようになる。
他方、<愛の樹>は定義しがたいものであるが、<暴力の樹>と対概念であることから、女性原理的・母権的なものと想定することができる。一般的な認識構造において、外的世界は<感性>を通っていき<悟性>によって把握されるのだが、外的世界のうち<愛の樹>に属するものは、<感性>を通った後、<悟性>を通らずに直接<魂>に伝わってゆく。このことをウルリヒは女性たちとの交際の中で漠然と感じ取るのだが、その際に<感性>において触覚的に感じられる<愛の樹>の現象が「やさしさ」という語によって暗示される。ウルリヒにとって、<愛の樹>は、この作品の第2巻における妹アガーテの登場によって、より明確に輪郭づけられるのだが、第1巻においては彼を取り巻く五人の女性たち――レオーナ、ボーナデーア、ディオティーマ、クラリッセ、ゲルダ――がアガーテの先触れとしての役割を部分的に担っていて、こうした女性たちに共通する、ウルリヒの半身としての可能性を<女性的なもの>と言い表すことができる。そして、<女性的なもの>の核にある<母性的なもの>が、ウルリヒを惹きつけたり、嫌悪感を引き起こしたりしながら、<子供>の<身体感覚>を、すなわち、認識構造が確立される以前の、外的世界をそのまま受け止める<現存在>を呼び起こす。アガーテの<現存在>はこうした<子供>の<現存在>に近いのだが、彼女の<身体>は性を具えている点で、つまり、生殖/<創造>の可能性を秘めている点で、<子供>の<身体>とは決定的に異なっている。このように<愛の樹>の現象形態は、性的なものを含めた<身体>性を基盤としていることがわかるが、その存在は「やさしい」、「やわらかい」、「暗い」、「空虚な」といった語の配列からかろうじて想定することができる。
<生命の樹>は<暴力の樹>と<愛の樹>の総合であるが、この<生命の樹>そのものに関する直接的な説明はこの作品の中にほとんどなく、断片的な記述からその全体像を推し量ることしかできない。ウルリヒとアガーテの兄妹は、父親の死をきっかけにして久しぶりの再会を果たし、アガーテの強い希望に従って、<父>の遺言書を偽造する。この遺言書偽造の是非を巡って、兄妹は善悪についての、すなわち<道徳>について問い始める。こうした兄妹の探究は、楽園から追放されたアダムとエーファが辿った道を遡るものであると見なすことができる。つまり、アダムとエーファの場合、彼らが<父>の<法>を犯して「知識の樹」の実を食べた後、神は、知識を手に入れた彼らが今度は<生命の樹>に手を伸ばして、永遠の<生命>を手に入れることを恐れて、彼らを追放したのだった。それに対し、ウルリヒとアガーテは、<父>の<法>を犯した後に、善悪の「知識の樹」にたどり着いて、さらに<生命の樹>に手を伸ばそうとしているのである。ウルリヒ/アガーテ兄妹は、<父>の<子>としてのこれまでの役割から解放されて、意識的に「二人家族」を形成し、この共同体の中で<遊戯>し始める。すなわち、容貌の類似性を基にして、自分たちを<シャム双生児>に喩えて、双子ごっこを始めるのだ。そして実際、ウルリヒがアガーテの身支度を手伝っているときに、こうした<遊戯>的な要素が現れて、<シャム双生児>のイメージが<身体>性を帯びるという事態が生じる。すなわち、兄がかがみこんでいた妹の<身体>を抱きかかえて空中に放り投げたとき、妹の<身体>の<軽さ>とそれを支える兄の<身体>の<重さ>が均衡を保って、それまでとは確実に異なる時間・空間が出現したのである。それは、新プラトン主義的なルネサンス哲学における「存在の大いなる連鎖」という考えに代表されるような、<人間>が絶対的存在と垂直方向に結びつく時間・空間である。この一瞬の後に、兄は空中から降りてきた妹の<身体>を抱きかかえるのだが、こうした兄妹の姿は、「まるで彼らの身体は一本の根から生じたかのようだった」(S.1083)と描かれていて、<生命の樹>のイメージに重なってくる。さらに、二人は<千年王国>というキリスト教的なイメージを用いながら、<道徳>について会話を交わしていき、こうした一般的なイメージを借用しながら、<人間>が絶対的存在に繋がるような時間・空間を、<自然>という概念で捉え直してゆく。
本論文は、ムージルの詩的方法に則って、<原-我>という理念が小説の筋に従って展開してゆく過程を追う。この理念の現象は、主人公たちにおいては<シャム双生児>という比喩で把握されることになるのだが、さらに、作品のレベルにおいて<シャム双生児>という比喩が<生命の樹>という別のイメージを紡ぎ出している。そして、一般的なイメージを引き寄せてはそこから別のイメージを連想してゆくことによって、既存のイメージに固定されずに、イメージの連鎖の中から陰画的に<原-我>としての<人間>像が浮かび上がってくる。<人間>に関する知を探究し続ける、こうした運動が、ムージルの詩的人間学なのである。