本稿は、これまでの研究では余り注目されて来なかった、朝鮮総督府の日本人高級官僚、特に「生え抜き官僚」と総督府官僚のOB団体ともいうべき中央朝鮮協会とを取り上げ、彼らの議論や意見書の分析を通して、朝鮮総督府官僚の統治構想を究明しようと試みた。本稿でいう「生え抜き官僚」とは、統監府時代から朝鮮に在職していた者や、高級官僚としての経歴を朝鮮でスタートさせ、官僚人生の大部分を朝鮮で送った日本人高級官僚群を指している。彼らは、日本内地の大蔵省や内務省など、中央官庁の官僚たちとは異なる独自の統治理念を抱いて総督府の人事を進め、政策立案を行い、またそれを実行に移した。彼らの行った人事の特質、政策の中味、統治構想をめぐる相克の三点に注目することで、総督それ自身や総督府の制度的特徴に関心を集中させてきた従来の研究を新しく書き変えられると考えた。本稿で明らかにしたことは以下の諸点である。
第一部では、1910年の韓国併合から1919年8月の朝鮮総督府官制改正までの時期につき、「生え抜き官僚」の人事、政策、統治構想を分析した。この時期の総督府は、「日本陸軍による政治的独立領域」と見られることが多く、総督府を動かす政治主体は、陸軍、特に長州閥、中でも初代総督寺内正毅に連なる勢力であった。だが、同じ山県閥と見なされがちな寺内総督と山県伊三郎政務総監の間には、憲兵と内務部という、それぞれのバックボーンをなす組織同士の対立があった。本稿では、1915年6月に発布された伝染病予防令をめぐる、憲兵と内務部の衛生行政をめぐる対立について考察した。同化への展望をめぐっては、寺内総督をはじめ朝鮮総督府武官らは楽観的な展望をもち、第一次世界大戦の勃発にも後押しされ、徴兵令施行やそれと関連した民籍の移動にも積極的とならざるをえなかった反面、朝鮮人の参政権問題については激しく反発していた。
第二代の長谷川好道総督時代に注目されるのは、「生え抜き官僚」が推進する産業政策であった。第一次世界大戦の「熱狂的好景気」による企業新設・拡張ブームに触発され、朝鮮においても、「会社令」の適用を緩和し、また朝鮮総督の監督下に殖産銀行を設立して積極的に内地資本を誘致しようとする動きを活性化させた。これら総督府官僚たちの動きは「陸軍による政治的独立領域」に修正をもたらし、文官と武官との対立もまた顕在化するようになっていった。上記の対立は、朝鮮を中国大陸との強い結びつきの中で把握しようとする寺内ら軍部と、朝鮮統治の安定を優先する山県政務総監をはじめとする文官との間の統治構想の相違からも不可避的に生じるものであった。
第二部では、1919年の三・一独立運動以降の、所謂「文化統治」期を扱った。三・一独立運動が日本の政界上層部に与えた衝撃には深刻なものがあり、植民地統治政策の見直しが図られた。総督府官制改正をめぐり、各政治勢力はそれぞれの統治構想、三・一独立運動善後策を構想していった。山県伊三郎を中心とした総督府文官官僚が作成した「善後策」は、同化を志向しているという点では、原敬首相の内地延長主義と同じであり、朝鮮の政治的現実を統治政策に反映させようとした「善後策」であった。原によって選任された水野錬太郎政務総監は、それまでの総督府官僚に対して大幅な人事異動を行った。水野政務総監は、中央から若手の内務官僚や司法官僚を異動させることで内地延長を実現しようとした。水野時代は、植民地統治上の法律的制度的整備が進んだ時代であったが、同時にこの時期は、水野によって朝鮮に異動させられてきた官僚と「生え抜き官僚」との間で激しい対立が起きた時期でもあった。本稿では具体的に、地方制度改正問題、朝鮮民事令改正問題について二派の対立の実態を検討し、これらの政策が、両者の競合とせめぎあいの中で実行に移された妥協的な政策であったと位置づけた。一方、新旧の総督府官僚は、第一次世界大戦後、欧米各国やその植民地へ調査の為の外遊に出かける。こうした経験は、彼らに、世界的な脱植民地化の傾向に目を向けさせた。欧米へ外遊経験から総督府官僚たちは、新たな植民地統治策を構想するようになってゆく。
水野の後任となった有吉忠一政務総監の朝鮮赴任は、総督府に新しい局面をもたらした。これまでの水野時代の積極主義に裏打ちされた同化政策を可能としたものは、第一次世界大戦の好景気であった。それが、1920年からのいわゆる「戦後恐慌」で終わりをつげ、好景気が支えた積極政策は修正を余儀なくされる。また、水野と違って帝国議会にパイプを持たなかった有吉政務総監は、総督府予算をめぐって議会と協調的な折衝を遂げることが困難であった。民族運動対策や、積極主義に裏打ちされた同化政策が行き詰まりつつある中で、総督府の官僚・大塚常三郎は、局面打開のため、教育・産業などに極限した自治案を盛り込んだ「朝鮮議会」設置を独自に構想し、帝国秩序の再編期に応じた統治構想を模索し始めるのだった。
第三部では、1924年から1932年の、いわゆる政党内閣期を扱った。加藤高明憲政会内閣の緊縮財政に対応するため「生え抜き」財務官僚は、財政調査委員会や税務機関設置などによる独自の財政再建案を樹立するが、新任の下岡忠治政務総監の反対にあう。さらに大蔵省主導の税制整理が行われ、朝鮮に対する増税が行われることとなった。本稿では、税制調査委員会で問題となった、営業税を国税にするか地方税にするかという対立を事例として取り上げ、これが単なる税金の種目の問題ではなく、政党内閣のトップダウン式の朝鮮統治方針に対する、総督府「生え抜き官僚」の反対から来るものと位置づけた。一方、田中義一政友会内閣は、世論の反対を押して山梨半造を朝鮮総督とした。田中内閣は総督府官僚の政党化を憂慮する世論を意識したためか、日本の中央官庁からの異動者数を抑制するようにした。山梨総督と池上四郎政務総監は、朝鮮人教育第一主義を表看板としたが、その教育政策は内地延長主義・同化主義を鮮明に打ち出したものであった。これに対して「生え抜き官僚」は、財政的負担の過重と附随して起るはずの思想悪化を懸念して、反対に廻るのだった。
朝鮮統治の政党化が進展する中で、政府が拓務省を設置したことは、独立性の強い綜合行政統治機構としてやってきた総督府に大きな影響を及ぼさずにおかなかった。殊に、1929年以降、浜口雄幸民政党内閣となってからは、総督府の人事・予算に対する拓務省の関与は強化され、総督府官僚は、ますます政党化の進展する朝鮮統治機構に対して危機感を募らせた。このような状況において、非政党的な指向をもっていた斎藤実が総督となり、児玉秀雄が政務総監となったことは、朝鮮統治の実際が政党内閣から離れてゆく契機となった。斎藤と児玉のコンビは、民族運動へ一定の対応をするため、あるいは、政党勢力による朝鮮統治への干渉を防止するため、朝鮮に地方議会のようなものを設置すべきであるとの構想を持つようになった。しかしこうした構想は政府の入れるところとはならず、朝鮮居住者の政治参与問題については、結局のところ地方自治拡大の方向をとったに止まった。
第四部は、中央朝鮮協会を通じた、総督府官僚たちの中央政府への働きかけを扱う。1920年代、日本国内において一定程度まで政党政治が成熟したことは、政党の植民地への影響力を拡大することとなった。しかしながらそのことは、帝国議会や内閣に足場を持たない総督府官僚にとっては、安定した植民地経営を行うことへの困難性を増すことと同義であった。予算の獲得、内地資本の誘致のため、朝鮮と縁のあった朝鮮関係の官僚OBなどは、北海道協会をモデルとして、朝鮮開発、朝鮮問題の調査・研究、内鮮融和を目的とし、1926年中央朝鮮協会を設立する。協会は「朝鮮の開発」という旗印の下に、主として総督府を援助する活動、参政権を持たない朝鮮居住者からの陳情・請願を本国の内閣や議会に斡旋する活動、内鮮融和活動を行った。1920年代に入ってから、民族問題のみならず階級問題、国家権力と地域住民との間の紛争、地域間の対立など、種々の社会問題が顕在化する中で、朝鮮では非公式のチャンネルを活用した政治運営が追求されるようになったといえるだろう。協会はこのような情勢の変化に対応するものとして、日本政府、朝鮮総督府、朝鮮社会を仲介し、一方で総督府の施政を援助しつつ、他方で朝鮮社会の陳情を積極的に受け入れ、また在満朝鮮人問題や参政権問題に関わるなど、植民地支配を「社会的」な領域まで拡大しようとした。
南次郎総督が赴任し、日中戦争も勃発すると、総督府はいわゆる皇民化政策を進めつつ、戦時体制を強化するなど、朝鮮支配政策を大きく転換させた。朝鮮軍や「満州組」(「満州国」統治に関わった後、総督府へ異動してきた官僚たち)のリーダーシップによって推し進められた、精神総動員と物資総動員は、朝鮮社会の中に種々の相克を引き起こさずにはいなかった。総督府と朝鮮社会の間の緊張は、『東亜日報』廃刊問題を引き金として、中央朝鮮協会の立場を複雑なものにした。中央朝鮮協会の首脳部は、言論統制や皇民化政策には同意していたが、朝鮮軍や「満州組」の主導するような極端な「内鮮一体」政策では、三・一万歳運動の二の舞を引き起こすとの憂慮から、強制ではないこと、漸進的に進むこと、の二点をあくまで総督府に要望していた。長い間朝鮮統治に間接・直接に関わってきた、彼ら「朝鮮通」は、急進的な統治政策の転換が朝鮮統治に悪影響を及ぼすことを知っていたのである。総督府と中央朝鮮協会のこうした対立は、朝鮮軍や「満州組」の主導権の下に急速に推進された「皇民化」政策や戦時統制に対する、中央朝鮮協会に代表される現状維持勢力の「異議申し立て」に他ならなかった。これ以降、在朝日本人の利益・圧力団体として朝鮮社会に太いパイプを持っていた中央朝鮮協会は、総督府支援という本来の活動主旨からは離れるようになる。
本稿は、日本国内の政治的経済的情勢や、日本の置かれた国際環境の中で、朝鮮総督府官僚が現状をいかに認識し、いかなる人事を進め、いかなる政策を立案し、いかなる統治構想に基づいて行動したかを可能な限り広範な一次史料から明らかにした。植民地権力(日本帝国主義)対民族独立運動という、従来の二項対立的な植民地研究の分析枠組を乗り越え、多面的・重層的な分析枠組みで、朝鮮総督府官僚の政策決定過程について分析を加えた。