本論文は、清代中期の漢学者戴震(字は東原、1724-1777)の哲学について二つの側面から考察を行う。一つは、清末民初期における中国学術の近代的転型プロセスの中で、「戴震の哲学」が形成されていったプロセスを探り、その内容を明らかにすること。もう一つは、戴震に起源を持つ哲学的思弁が清末期にどのような問題構制のもとで、どのように戴震を批判的に継承していったのかを分析すること。この二つの問題を上下2編に分けて検討する。
上編では、梁啓超(1873-1929)と胡適(1891-1962)による「戴震の哲学」形成のプロセスを明らかにするとともに、戴震の学術体系が明末に伝来した西学の影響下で形成された漢学的哲学としての性格を有していたことを明らかにする。
清代漢学の実証主義的な気風は、清末民国初期にいたって、「科学精神」や「科学的方法」として再評価されるようになる。それは、中国における学術の近代的転型を促す内在的条件であると認識された。その一方で、漢学はそれ以前の宋明理学(宋学)に比して、没哲学的だという見解がしばしば見られる。その一人梁啓超は、宋学的哲学の系譜のなかに戴震を位置づけた。胡適は、梁啓超とは対照的に、反宋学的立場から清代に新しい科学的な哲学が誕生したと論じて、その典型を戴震に求めた。つまり、胡適は漢学的哲学の存在を主張したのだ。だが、胡適は戴震の新しい哲学を支えた「科学精神」の由来を適確に名指すことはなかった。(以上第1章)
梁啓超は、胡適とは異なり、戴震の「科学精神」が明末にイエズス会士が伝えた西学の影響によって成立していたことを指摘している。ただ梁啓超は漢学の科学性と哲学を相容れないものだと見ていたために、戴震における漢学的哲学の誕生に十分な評価を与えることができなかった。戴震が集大成した清代漢学が主に行ってきたことは、イエズス会の学科体系においてフィロソフィアに分類されるものであった。漢学に哲学がないという評価自体は、近代的学科分類を変わることのない自明なあり方と見て、そこから断定したものにすぎない。戴震は、明末以来の新しい知のかたちを自らの言説構成の原動力として、格物致知のあり方を大きく転換したのだと言える。その意味でこそ、戴震は脱宋学的であったといいうる。しかし、彼は同時に聖人という仮構的人格を設定した。その結果、科学的な客観知識に対する開かれた態度と、性善説や修己治人的な道徳修養論とが一つの哲学体系の中に共有されることになった。(以上第2章)
上編を通じて明らかにしたのは、宋学的系統の上に成立する「戴震の哲学」像が、必ずしも、明末以来の中国学術史におけるダイナミズムを適切に評価したものではないということだ。戴震は、明末に伝えられた西学の知識と思考方法から多大な影響を受けて、明代までとは異なる格物窮理の学を行った。それはまさに、中国における哲学philosophyの成立とでもいうべき事件であった。清代には明末に流入した西学の影響のもとで方法的に大きな転換を遂げた新しい哲学が成立していたのであり、従来の梁啓超的清代学術史観は、それを適切にとらえ切れていなかった。
下編では、劉師培(1884-1919)と章炳麟(1869-1936)の清末における言説を取り上げる。彼らは、戴震が代表する清代哲学をもとにしながら、ポスト戴震期における二つの対照的な哲学的言説を構築した。
劉師培は、戴震の訓詁学的な理欲論を批判的に継承し、「心理」という概念を持ち出すことによって、それが自己展開する弁証法的歴史観を構想する。この概念は、戴震が一度「意見」であるとしてうち捨てた、外界認識の際に起動する主観的な分析作用のことであった。劉師培は、性善説をめぐる戴震のアポリアを批判するために、もう一度それを拾い上げたのだ。彼は、戴震の思想の中心は三綱批判と平等主義であるとした。そして、進化論を吸収しながら、原初的平等から究極的な善としての大同的平等へと展開していくべき目的論的歴史像を描こうとした。戴震の理欲論は、欲望肯定論という点から見れば、利己主義的弊害を有するが、一方では究極的平等への契機を展開するものでもあった。その意味で、戴震の交利主義思想は、「心理」の自己展開プロセスとしての劉師培の歴史観の中で、重要な弁証法的動力として機能している。劉師培は戴震に源を発する漢学の伝統を自らの知的資源として存分に吸収、応用しつつ、同時に陽明学を再評価することによって戴震を有機的構成要素として自らの歴史哲学に取り込んでいった。したがって、劉師培の戴震論は漢学を通過したものでありながら、実質的には梁啓超の宋学的哲学としての戴震像を先取りし、しかもより強力に構成しようとした例であるとも言える。(以上第3章)
章炳麟は、中国固有の哲学伝統の中から宋学を排除し、荀子と荘子に代表される周秦諸子学を哲学であるとする。そして、戴震はそのような系列の哲学史の中で最も近い時代の哲学者であったという。章炳麟は音韻訓詁学から周秦諸子学へという真理追求の段階的方法論を提唱している。これは漢学的哲学の近代的展開というべき例だろう。章炳麟の公理批判思想にも、戴震の理観に対する継承の痕跡ははっきりと刻まれている。そして、章炳麟独自の斉物思想は、戴震的理の否定ではなく、超越論的な視点のもとでそれを相対化していくことを契機として成り立っている。章炳麟は、戴震の学術行為を「学隠」と呼んだ。章炳麟にとって、「隠」というあり方は、本来性とは異質の勢として現前している理的秩序の中につきしたがっていく(随順)ことを意味していた。章炳麟は、戴震が示した理的秩序を、非本来的でありつつ、なおもそこに依拠していかなければ人が人たり得ないような世界の境位として承認する。しかし、それは同時に『五無論』の中で示されたような無生主義のユートピアとは異なり、随順的存在としてしか生存し得ない人間が依って立つべき限定的な公共的準則の体系だったのだ。章炳麟が公理に代えて提出した斉物という概念は、公理の客観性を承認しつつ、なおも万物がありのままに存在するような多様性の原理を名指すものであった。(以上第4章)
戴震と劉師培、章炳麟を結びつける共通の学術的関心は音韻訓詁研究(小学)に表れている。また、戴震の理的構造論はその音韻学研究の体系を支えるものでもあり、彼らの音韻研究の構造を祖述し比較することは、その理的構造に対する把握のしかたを分析することにつながる。とりわけ、戴震の理から出発して斉物概念にたどり着いた章炳麟において、こうした比較は重要な意味を持つ。章炳麟は、戴震の方法を用いながら言語の音韻的構造を体系化しようとした。だが、戴震と異なっているのは、章炳麟の体系が、その斉物思想を映すような、多様性の体系として描かれていることだ。方言音に対する認定と体系編入のやり方は、さまざまな声が同時に存在しているような斉物的世界観へと直接つながっている。ただし、章炳麟は言語という一種の理的秩序をそのまま普遍性の開示であるとは見なかった。言語的理は同時に勢であり、無生的世界の本原性とは異なった随順の世界であった。そして章炳麟は、哲学の役割をそのような随順的世界に対する思考実践=「見」に限定している。すなわち、章炳麟にとって哲学とは、本原性の世界と勢としての現実との狭間で、随順的世界にとどまりつつ、斉物的平等の地平を模索することであったと言える。その意味で章炳麟にとって言語とは、始原においては暴力的に与えられた存在と認識の依拠であると同時に、有限な個体的生とは異なり、「跡」を遺していくことのできる希望の仮託先でもあった。(以上第5章)
章炳麟の転注理解は、斉物的多様性の世界を映す言語論に重なるものであるが、それは劉師培の転注論にも類似している。しかし、このような類似にもかかわらず、両者の思想は、深刻な相違を呈しているというべきだろう。それは、彼らの文論を比較することで明らかとなる。章炳麟の文論は、文字の有する独自の価値を強調することに主眼が置かれていた。それはまさに、現出者をいかに公共的なまなざしのもとに象り、その「跡」を遺していくのかという問題に対する解答の試みであった。それに対して、劉師培は、韻文中心主義の文学論を展開する。その帰結は、「天籟」のもとに普遍的言語が成立するに違いないという、やはり目的論的、かつ予定調和的な歴史観の反復であった。これは、章炳麟が、言語音声の多様性、瞬間性、空間的・時間的差異性をそのまま認めて成り立たせていくような超言語的境位を「天籟」であると見たのとは対照的であろう。『荘子』斉物論篇に登場する「天籟」というアレゴリーの解釈において、劉師培と章炳麟は対照的であり、しかもそれは、両者の思想の対立点を如実に反映している。ただし、章炳麟の反目的論的哲学は、劉師培の小学研究から示唆を受けて成立しており、章炳麟の思想が劉師培の持つ強力な目的論的思考からどれくらい自由なものとなりうるのかという問題は十分遺されている。(以上第6章)
全編を通じて、「戴震の哲学」というジャンルが形成されてくる歴史的プロセスを明らかにすると共に、戴震の学術思想における哲学的課題が清末期にどのように継承され、新たな問題を開いていったのかを考察した。それは、「戴震の哲学」というジャンルを相対化しながら、戴震以降の哲学-明末以降に転換を遂げた中国哲学-のゆくえをたどろうとする試みであったと言える。