本論文は、フリードリヒ・ヘルダーリン(1770-1843)の後期詩作品の言葉を文法的な単位に基づいて分析することによって、ヘルダーリンの詩世界には固有の詩文法が存することを示し、それによって詩人の歴史観、言語観が詩の言葉一つ一つに映じていること、さらに、そもそも詩作品というものが一つの言語体系を要請するものであることを明らかにした。この言語体系を本論は、詩文法と呼ぶ。
本論ではまず、ヘルダーリンの歴史観を決定付けているのは神々の欠如と自然の欠如という二重の欠如であり、こうした歴史観がヘルダーリンの言語観を形成していることを示した。これを踏まえ、後期ヘルダーリンの詩文法を構成する重要な表現として、固有名詞、抽象名詞、比較級、最上級、ダイクシス、動詞の時制の機能を分析する。最後に、ヘルダーリンの現実認識としてあった「寸断された」言語を超克するものとして、ヘルダーリンが自らの詩のなかで要請する「聖なる名前」について論及する。

I.二重の欠如―「夜の時代」の言語
ヘルダーリンの後期作品には詩人の歴史観が底流している。その歴史観を端的に示しているのが「夜の時代」という言葉である。ヘルダーリンは、神々が人間に対して直接働きかけた古代ギリシアを豊かな「昼の時代」とし、神々が去った後の時代を乏しい「夜の時代」としている。また、神々の喪失と並んで「自然」の欠如もまた、ヘルダーリンの歴史観を決定付けている。ヘルダーリンにおいては全体概念とも呼べる神々および自然の喪失は、それゆえに、現在を全体という統一性を欠いた断片的なものとしている。ただし、失われたのは「神々」や「自然」そのものではなく、そうした対象との関係である。この認識は、後期ヘルダーリンの歴史観のみならず言語観をも貫いている。ヘルダーリンの後期詩作品を形成する言葉同士の結合が、不自然なほどに滑らかさを欠いているのは、このような現実認識の反映である。

Ⅱ.固有名詞
神々なき「夜の時代」の詩人であるヘルダーリンにとって、神々を直接名指すはずの神々の名前は、形骸化したものとなっている。すなわち、ヘルダーリンの詩作品で用いられている神々の名前は、呼ばれる対象との繋がりの喪失を明示している名前である。ヘルダーリンがソフォクレスの悲劇『アンティゴネー』を現代の読者のために翻訳したさい、ギリシアの神々の名前をそのままドイツ語にせず、神々の属性でもって言い換えるのも、それらの神々の名前を用いることの不可能性を示している。一方で、神々の名前を用いるときには、それらの神々との関係の断裂をも同時に示すこととなっていることが、後期讃歌の一つ『唯一者』から明らかとなる。関係の断絶を明示し、かつまた同時に、断絶を引き起こす固有名詞であればこそ、ヘルダーリンはこの詩の主題でもあるキリストの名前を呼ぶことを躊躇いもするのである。

Ⅲ.抽象名詞
ヘルダーリンの詩において、固有名詞が神々との関係が失われたことを示す形骸化した言葉であるとしたら、抽象名詞とは、今はまだ意味内実を持たないが、「いつか」その意味内実を獲得する言葉である。つまり、ヘルダーリンにおける抽象名詞は、予め何らかの実体があって、そこから抽象されてできた言葉なのではない。そのため、頻繁に登場する「真なるもの」、「最高のもの」といった抽象名詞が何を意味しているのかを追究したとしても、ヘルダーリンにおける抽象名詞の厳密かつ正確な解釈にはたどり着かない。ヘルダーリンにおける抽象名詞とは、彼の終末思想的な歴史観を示す言葉である。なぜなら、抽象名詞がその内実を獲得する「いつか」とは、歴史が完成する「祝祭」の時だからである。
このようにヘルダーリンの後期詩作品では、固有名詞と抽象名詞は対となって、ヘルダーリンの歴史観を示す言葉であることが明らかとなる。

Ⅳ.比較級
ヘルダーリンにおける比較級は二つ以上の事物の様態の程度の差、すなわち非同一性を表すだけではなく、むしろ、二つ以上の異なる事物の間に共通項を見出す語法である。『ヒュペーリオン』においては、比較級は、自分の求めている対象と自己との同一化を求める運動を表している。また、『エムペドクレスへの基底』などの、理論的考察を行っている文章では、比較級は作品として結実しなければならない言葉を先取りした言葉、叙述を目指した言葉である。後期讃歌においては、このような言葉を求める運動を示しているのは接続詞の»aber«だが、実にこの語は語源的にはインド・ヨーロッパ語族の語根»apo-«すなわち»ab«、»weg«の古い比較級形態であり、「それに続いて」、「後に」を意味していたのである。「しかし」という語は、言葉を求める運動を示す比較級に相当する表現となっているのだ。言葉を求める運動としての比較級は、欠乏を表す言葉でもあり、次章で考察の対象となる最上級に近づくための表現でもある。

Ⅴ.最上級
最上級はヘルダーリンにおいては、三つ以上の比較対象のなかで、なんらかの点において最も程度が甚だしいことを表す語法というよりも、もはやそれ以上のものはないという境界線を引く言葉である。さらに、最上級は理論的には神的存在を可能とする媒介の機能を持たされることもある。ヘルダーリンは、最上級という語法で、名前も実体ももたない神と人間との関係性を描出しようともするのである。最上級は、関係性の喪失をその時代の特徴としている「夜の時代」において、その形によって関係性を示そうとする語法となっている。
後期讃歌で用いられる最上級は、詩の形成原理となっている。最上級は後期讃歌に頻出するわけではないが、主として詩を形作る形象に冠せられ、詩想を形成する力となっている。詩の中に登場する最上級表現を結ぶことで、その詩の輪郭が描けるほど、この語法は特別な機能をもっている。完成された後期讃歌のなかでは唯一、最後に書かれた『ムネモシュネー』には最上級表現が出てこない。この詩は、あらゆるものが連関を失い、寸断されていく予感に充ちている。ここには、媒介となるべき最上級がないのである。最上級が失われた世界を描いたこの詩を最後に、ヘルダーリンが自由韻律の詩を完成させることはもはやなくなることも、最上級という語法がヘルダーリンにおいて詩を形成する働きを担うものであることを示している。

Ⅵ.ダイクシス
ヘルダーリンの詩世界にあっては、ダイクシスとはあらかじめ存在する場を前提として理解可能となる言葉ではない。たとえば詩中の「わたし」は、詩世界によって初めて存在を求められる言葉である。つまり、「わたし」という言葉においては、それが誰であるかが重要なのではなく、詩に先立っては存在しない対象を定位させるという機能こそが決定的なのである。ヘルダーリンの詩において、「わたし」が定位されるとは、「わたし」が歴史的存在として世界のなかに定位されることにほかならない。そのため、詩から「わたし」という言葉が消えている詩句においては、詩は歴史自身が語る言葉のようである。
また、「今日」、「今」、「今や」といった時間のダイクシスもやはり、直接的な時間との関係を前提としてもっているのではないし、あらかじめ定められた発話の時点でもない。時のダイクシスは、直接的な時との関係を要請し、発話の原・時点となることを求める言葉である。ヘルダーリンの詩世界にあっては、言葉と世界がダイクシスを通じて、要請という形で歴史という通路をもつのである。

Ⅶ.時制
ヘルダーリンの悲劇論は「瞬間」をめぐって展開し、神と結び付けられた「時間」概念が重要な意味をもっている。ヘルダーリンにとって悲劇形式とは「時間」と化した「神」と「人間」とが相まみえる形式であり、悲劇的事象とは、登場人物が「時間」そのものを経験することに輻輳している。ヘルダーリンの詩作品においても、神的なもののありようは、その形式において時間を示すものである時制に現れている。ヘルダーリンは普遍的な神の働きを表現するために、敢えて文法的な規則や、詩の前後の文脈を犯してでも、普遍的事実を表す時制である現在形を用いることがある。現在形という形は、その意味する範囲が過去、現在、未来にわたって広がりをもちながら、それでいて今という現在時と関係している事柄を述べるときに使われる時制であるが、ヘルダーリンにおいては、この時間的連関はまさに神的なるものの特徴を述べているのである。現在形は神的な事象を語る形式なのである。

結語
「夜の時代」の詩人ヘルダーリンは、自然と神々との断絶のうちに詩を書いたが、詩作とは、「寸断された言語」しかもちえないヘルダーリンにとって、この超えがたい断絶を確認することでもあった。ヘルダーリンの詩の言葉が特異な意味機能をもっていたことがその証となっている。だが、ヘルダーリンは同時にこの断絶を超えようともしていたことを、後期の詩作品に満ちている紐帯的形象が示している。その最たる形象は、ヘルダーリン自身、今は欠けているものとしている「聖なる名前」である。『ゲルマーニエン』においては、「名前」を「呼ぶ」ことが、詩を形成する根本的な詩想にまで高められており、ヘルダーリンの詩における名前の意味の極点を示している。この詩では紐帯となるべき「聖なる名前」が呼ばれることが要請されているのである。この名前が呼ばれる時に至って初めて、紐帯となる「聖なる名前」は、神的存在との新しい結び付きの証として人間の言葉となる。ヘルダーリンは詩作を通じて一貫して、二重の断裂をそれ自身の形のうちに含んでいる言葉を用いつつ、その断絶を超え出るものを企図していたのである。