第一章模倣の形而上学

世界の始源と終局を語るグノーシス主義の諸神話は、その世界理解の基本線に「模倣」という概念を据えている。とはいえ模倣概念を基軸として世界について語るということは、当時の様々な宗教的・哲学的諸体系が、微妙な差異を保ちながらも大枠で共有していたものと見ることができる。グノーシス主義的体系の特異性を剔抉するための予備的な考察として、この章では、プラトン主義における「模倣」の概念とその世界観について三段階に分けて図式化する。
プラトン主義の描き出す世界は、模倣概念を基軸として展開し、集束する。可視的世界はイデア界の模倣によって成立しているゆえに「美しく善きもの」として存在するのであり、人間の魂は至高神の姿を刻印されたその似像であるゆえに知性を有し、さらには至高神との神秘的一体化に与ることができるのである。模倣概念によって、形而上的世界と可視的世界は、あるいは神と人間は有機的に結びつけられ、統一的な全体性と位階秩序を構成している。

第二章模倣の神話学

本章では、グノーシス主義の代表的な神話の一つである『ヨハネのアポクリュフォン』を取り上げ、特に前章で図式化したプラトン主義的体系との対比の観点から分析が行われる。前出の三つの段階に関して、グノーシス主義とプラトン主義の世界観は大枠での共通性を示す。しかし神話のプロットを素描しただけでも直ちに明らかとなるように、グノーシス主義が描くその世界はプラトン主義的なそれから遙かに隔たっている。それでは、両者の差異を生み出すその根源的原因とは一体何だろうか。
その最大の原因として、「ソフィアの過失」というプロットが物語全体に対して与えている影響の大きさを指摘しなければならない。『ヨハネのアポクリュフォン』における模倣の反復は、ソフィアが登場するまでは落ち度のない過程としてスムースに進行する。プレーローマ界は、語り得ぬ至高神とその似像=鏡像であるバルベーローを頂点として、統一的なヒエラルキーを形成するのである。しかし自ら新たな神を生み出そうとするソフィアの行為は、至高神の地位の簒奪を目論むという不当なものであり、それによって生み出されたヤルダバオートはプレーローマ界の外部に追放される。ヤルダバオートはこうして、プレーローマ界に類似していながらもそれに対抗する可視的世界を、そしてアルコーンという闇の神々からなる独自のヒエラルキーを創造していくのである。

第三章魂の解明

前章までの考察において、「模倣」という概念自体が、その論理的レベルにおいてある両義性を有しているということが指摘された。プラトン主義的形而上学、あるいはより広く、古代末期のギリシア思想が前提とする似像的模倣。そしてグノーシス主義が展開する虚像的、あるいは見せかけ的模倣。とはいえそもそも、「模倣」という概念がこのような両義性を有するようになるためには、どのような認識論的構図が前提されなければならないのだろうか。このことを明らかにするため、本章では、精神分析の理論をグノーシス神話の分析に積極的に活用していく。
古代末期のグノーシス主義と現代の精神分析が共有する観点とは、両者が共に、人間精神の根底に通常の意識からは隠蔽されている語り得ぬ実体の存在を想定し、さらにはその存在が忘却されるに至る原因となる悲劇的経験を見出したという点にある。言葉を語ることのできない幼児infansは、鏡に映った自己の姿を見ることによって最初の自己認識を獲得し(鏡像段階)、原初的な自我を芽生えさせる。しかしそれは、自己愛的対象の発見という肯定的契機であると同時に、他者によって見られる自己の発見、すなわち自己と自己像の乖離、存在と表象の乖離という否定的契機ともなる。人間にとってその鏡像=似像は、自己同一性の獲得と分離的疎外の発生という両義的な効果をもたらすのである。自己認識を巡る弁証法的運動の中で、人間の精神は、「わたし」と「あなた」──具体的には子と母──の一体性という原初的充溢状態から、自己と他者の分離に基づく社会的領野へと導き入れられなければならない。その時「わたし」は、自分が他者によってどう見られているかという観点から、自己の表象を操作するのであり、私と他者の分離を経過した後に成立する人間同士の欲望の交換は、不可避的に「見せかけ」の次元を含んだもの、シミュラクルの次元を含んだものとなるのである。以下本章では、このような理論的パースペクティブに基づき、グノーシス主義の種々のモチーフが横断的に分析される。
自己の鏡像の発出に基づく自己愛的充溢空間の成立と、その破綻。(Ⅱ・Ⅲ節)
嫉妬、あるいは羨望。グノーシス主義の物語では、至高神との類似性を有する神々たちの間に、しばしば競合的な敵対関係が発生する。彼らは相互に似ているがゆえに敵対し、しばしば相手を激しく嫉妬するのである。(Ⅳ・Ⅴ節)
欲望の騙取による捕縛。自己の鏡像は他人によって見られる自己の姿であり、そこには自己の存在を他者によって騙取されるという危機的契機が常に孕まれている。(Ⅵ・Ⅶ節)
シミュラクル、あるいは仮現論。闇の神々が張り巡らせる戦略に対抗するため、光の神々もまた自己の表象を操作する。闇の神々を欺くために、彼らは自ら偽りの表象を身に帯びるのである。(Ⅷ・Ⅸ節)
おぞましきもの。光の存在を完全に我がものにしたいという強い欲望によって、闇は自己の姿を「子宮」へと変貌させる。「子宮」は光の神を、自らの子であるかのように胎内に取り込もうと目論むのである。(Ⅹ節)
「新婦の部屋」。自己と自己像の分離を経験して以来、人間は他者との関わりの中で多様な表象をその身に纏い続ける。しかしついには自己の表象を安定させ、社会的な役割を引き受けなければならない。「新婦の部屋」とは、グノーシス神話が人間の生の終極=目的として提示するモチーフである。(XI節)

第四章息を吹き込まれた言葉

前章の末尾においてわれわれが逢着した問題とは、果たしてどのようなものだっただろうか。一言で言うならそれは、「真理の上演」という事象に関わる今や固有に宗教的な問題である。グノーシス主義における「新婦の部屋」という儀礼の遂行が、可視的世界におけるプレーローマ界の光景の再現として企図されていたように、宗教は何らかの仕方で、真理を見えるものとしなければならない。天上世界に存在する普遍的な真理と、地上のわれわれとの間にどのような関係があるのか、すなわち「真理の伝承」の経緯を跡づける歴史=物語を構築すること、さらには信徒がその伝承に連なる者であることを「真理の上演」によって明示し、彼をその演劇的舞台に参与させるということこそは、宗教がその中核に宿す事象なのである。
真理を可視化し、地上へと持ち来たらす存在者とは、神と人間の媒介者となる「キリスト」や「聖霊」である。そしてグノーシス主義は、まさにこれらの神格を中核として構築される教義的レベルにおいて、キリスト教正統主義と激しく対立した。本章では、このような観点からグノーシス主義とキリスト教正統主義の争点が対比的に分析されると同時に、グノーシス主義による表象理解が必然的に導くその帰結について論じられる。その構成は以下の通りである。
グノーシス主義との対比的分析を行うための予備的な考察として、キリスト教正統主義の教義について、「ロゴス=キリスト」と「聖霊」という二種の神格の位置づけに焦点を当てることにより素描する。(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ節)
グノーシス主義における聖書解釈の具体的手法を見るために、『フローラへの手紙』を分析する。聖書のテクストに複数の層──「霊的」「魂的」「肉的」という三層──の存在を認めるという点においてグノーシス主義と正統主義は共通しているが、正統主義がそれら三層を統一的な階層構造において捉えるのに対して、グノーシス主義は異なる資料=源泉sourceへと切り分けてしまう。このような差異を生み出す原因を理解するため、『三部の教え』におけるグノーシス主義のロゴス論、全き光として存在する神から目を逸らし、自らの身に亀裂を刻むロゴスの在り様を瞥見する。(Ⅳ・Ⅴ節)
「ロゴス=キリスト」や「聖霊」に対する思弁的構造が、儀礼的次元においてどのような差異に結びつくのかということについて対比的に分析される。正統主義におけるロゴスが、使徒を始めとする信徒たちに集合的な同一性を付与する聖餐礼の執行を可能とするのに対して、「欺く表象」を自ら身に纏うグノーシス主義のロゴスは秘義的な存在と化し、その実体に関する使徒たちの見解に分裂をもたらす。同様に、聖霊を中核とする儀礼である洗礼において、正統主義におけるそれが信徒たちと神的表象──「キリスト教徒」という命名──の同一化のシステムを確保するのに対して、グノーシス主義は表象への懐疑的姿勢を徹底化する。グノーシス主義によれば、洗礼を受けた者全てが「キリスト教徒」と呼ばれることは、その人間に対する聖霊の臨在を保証するものとなり得ないばかりか、神的な名の徒な僭称によって真偽の判別を一層困難なものにさえするのである。(Ⅵ・Ⅶ節)
本論の末尾として、グノーシス主義における神名論の特異性について分析される。欺く表象という観念、表象への懐疑に彩られたグノーシス主義の思弁は、そのような傾向の帰結を神名論において赤裸々に露呈させる。神名の僭称者たるアルコーンたちによって支配された世界から脱出するため、人間は秘された真実の神の名を唱えなければならない。しかしそのようにして構成される神名は、ダイアグラム、数秘術、舌語といった謎めいたパスワードとしての様相を呈していく。その結果グノーシス主義は、他者と共有可能な儀礼の執行、真理の宗教的上演に失敗してしまうのである。(Ⅷ節)