本論文は、近年の日本の夫婦関係をめぐる諸社会現象の背景にある、自己確立や主体性などの個人としての価値追求を「心理的自立」として捉え、夫婦関係において心理的に自立することの意味あいやそれがもたらす効果を実証的に検討し、「個」の確立と配偶者との良好な「関係性」を両立可能にする「夫婦関係における心理的自立」のあり方とは何か、という問いに取り組んだものである。
社会全般にわたって、個人の自立への要請が高まりつつあるものの、従来の心理学における夫婦関係研究は夫婦関係における「共同性」に偏っており、「個」の視点から夫婦を捉える試みはあまり行われてこなかった。また、家族社会学における「家族の個人化」の議論には、個人化傾向がもたらす夫婦関係への影響を検討した実証研究が不足し規範的な議論に留まっている点、「個」を確立・追求することと配偶者との親密な「関係性」の両立可能性に関する議論が欠如しているという点などの問題がある。さらに、人間の発達を自己の確立に関する「個」と人との関わりに関する「関係性」という2つの視点から捉える研究枠組みであるAutonomy-RelatednessFrameworkでは、望ましい発達のためには両側面の統合が重要であるとされるが、こうした研究の流れにおいても、「個」と「関係性」が一次元上の両極の概念として捉えられることが多い点、「個」の概念が個人の枠組みに限定され、自己完結的な議論に留まっている点、「個」と「関係性」をそれぞれ別の経路として捉え、その両立可能性に関する議論が不十分である点などの問題を指摘できる。そこで本論文では、「個」と「関係性」を両立可能にするためには、他者の存在を考慮するという視点を導入する必要があり、また、社会文化的な役割規範が強く期待される夫婦関係の特殊性を考慮し、‘夫婦関係特定的な’心理的自立の概念化が必要であると考えた。
以上を踏まえ、夫婦の良好な関係性と両立しうる「夫婦関係における心理的自立(AutonomyinMarriage,AM;以下AMと表記)」とは何かという問いを本論文の中心的なリサーチクエスチョンとし、1)AMの概念化、2)AMの個人や夫婦関係に対する帰結の検討、3)AMの規定要因の検討、の3つの課題を設定した。そして近年価値観やライフスタイルに大きな変化を経験している女性に研究の焦点を絞り議論を展開した。

第1の研究課題は、「夫婦関係における心理的自立」の概念モデルの構築、および、モデルの妥当性の検討であり、質的・量的研究手法の両方から課題の解明に取り組んだ。まず、インタビューを行い、本人の「主体性(個人が夫婦関係の中で主体的に自己を確立・維持しているか)」、および、「配偶者の主体性尊重(配偶者に一人の個人として向き合い、配偶者の立場や意見を尊重できるか)」という2つの下位概念からなるAM概念モデルを構築した。従来の心理学的研究における「心理的自立」が自己完結的な議論に留まったのに対して、‘他者の存在’を考慮した‘配偶者の主体性尊重’は本論文の特記すべき知見である。また、AMの2側面の両立こそが、夫婦関係における心理的自立の最善の状態であると考え、AMの両立状況の検討を本論文の中心的な議論の軸とした。なお、郵送調査に基づく統計的分析からもAMモデルの高い妥当性が確認された。

第2の研究課題は、AMが女性個人や夫婦関係にどのような帰結をもたらすのか、またAMの2側面の両立状況によってその帰結がどのように異なるかを検討することであり、5つの調査を実施した。
まず、女性個人のwell-being(以下、WBと表記)に関しては、個人の「精神的健康」、および、「適応的な親役割態度」を取り上げ、AMとの関連を検討した。その結果、AMの両立型ほど精神的健康度が高く、子育て後に親役割に執着する程度が低いことが明らかになり、女性個人のWBに対するAMのポジティブな効果が示された。
次に、AMの夫婦関係への効果に関しては、女性個人レベルの検討と夫婦のダイアドレベルの検討を並行して行った。ここでは特に、AMと夫婦関係WBの間のメカニズムの解明を試みた。その結果、AM両立型の女性は、夫婦間の対等な意思決定、促進的で協調的なコミュニケーション行動、夫に対する多様で豊富なサポート提供を行っていることが明らかになり、またこのような積極的な相互作用は夫婦関係WBを高める機能を果たしていた。さらに、AMがこのような積極的な相互作用に至る認知的プロセスとして「夫婦関係効力感」の効果を明らかにした。続いて夫婦ダイアドレベルの検討では、夫のAMが妻の夫婦関係WBに対する効果、および、夫婦のAMが夫婦の関係WBに与える効果を検討した。その結果、夫婦ペアデータの分析により、夫のAMは妻の夫婦関係WBに正の効果をもたらすことが示された。また、夫婦のAMの検討では、夫と妻双方のAMが高い夫婦は、平等な家事育児分担行動を行ったり、夫婦お互いが促進的で協調的なコミュニケーションスタイルをとることで夫婦関係WBを高めているというプロセスが示された。
以上の知見から、AMは女性の個人としてのWBを高めるとともに、夫婦関係において積極的な相互作用をもたらすことで、AMが夫婦の分離を招くのではなく、むしろ配偶者に対する強いコミットメントを生み出すことが示された。さらに、夫婦双方の自立が重要であることが示唆された。

第3の研究課題は、女性のAMの規定要因を検討することであり、男性のAMの規定要因に対しても探索的な検討を行った。AMの規定要因としては、個人特性的/経済的/社会関係的要因の3つに分類して検討した。個人特性的要因としては、個人の自立度、非伝統的な性役割意識、学歴が高いほど女性の「主体性」が高く、また個人の自立度が高いほど「配偶者の主体性尊重」が高いことが示された。経済的要因としては、特に「主体性」に対する女性の就労の強い効果が見られた。社会関係的要因としては、趣味・社会参加、親しいネットワークサイズ、友人関係充足度などの社会関係構築の側面や夫の「主体性」が、女性の「主体性」と正の効果を示した。さらに、女性の「配偶者の主体性尊重」に対しては、夫のAM2要因の強い効果が見られた。なお、男性の「妻の主体性尊重」を高める要因としては、非伝統的な性役割意識、家事・育児参加、趣味・社会参加などの男性自身の要因、および、妻のAM2要因の有意な効果が見られた。女性を対象にしたインタビューからは夫に対する妻からの積極的な働きかけなどの‘妻の役割’の効果も強調された。

これらの実証研究を通じて本論文が夫婦関係研究にもたらした貢献は、大きく分けて3つある。まず、従来の夫婦関係研究には「個」の視点からの研究が欠如していたが、本論文は‘主体的な個人’という視点から夫婦関係を問い直し、本人と配偶者双方の「主体性」重視が夫婦関係WBを高めることを明らかにすると同時に、夫婦関係研究の中で個人のWBをも扱うことで夫婦関係研究における「個」の重要性を明確化した。さらに、単にAMと夫婦関係WBの関係を検討するに留まらず、複数の研究手法を併用することや、AMから夫婦関係WBに至る媒介プロセスを様々な夫婦関係相互作用の視点からモデル化することで、研究課題に対するより重層的で包括的な理解を得ることができたことも夫婦関係研究に対する貢献といえよう。
さらに、本論文のより重要な学問的な貢献は、親密な対人関係における「心理的自立」の概念を拡張したところにある。「個」の確立・追求および他者との良好な「関係性」構築は、人間の重要な適応課題であるが、その両立は必ずしも容易ではない。そこで、本論文では‘他者の存在の考慮’という視点を新たに取り入れ、本人の「主体性」と「配偶者の主体性尊重」を両立することこそが、上記の2つの適応課題の達成を促す望ましい「心理的自立」のあり方であると結論づけることができた。このようにAMの2つの下位次元をお互いに独立した概念として位置づけ、その両立の有無を一貫して議論したことは本論文における新しい試みである。またその両立状況によって分類されるAMタイプが、デモグラフィック要因、および、夫婦の関係性関連要因とそれぞれ異なる連関を持つことを明らかにすることで、AMの概念化の有効性を示すことができたと考えられる。
今日の少子高齢化や女性の社会進出、個人志向性、脱伝統化などの要因を受け、今後更なる夫婦関係の変容が予想される中、本人と配偶者の個人としての主体性を保ちながら、良好な夫婦の関係性を確立するための夫婦各自の方策を探ることは、‘夫婦’を軸とする適応的な家族関係を確立していく上で危急の課題といえよう。本論文は、夫婦関係における「個」と配偶者との「関係性」の両立を可能にする望ましい心理的自立のあり方や、それがもたらす‘個人対個人としての夫婦関係’のあり方を関連づけて示した点で、本論文の社会的意義がある。
最後に、本論文の限界と今後の検討課題を特記する。まず、本論文は女性に焦点を絞って議論を展開しており、夫婦関係のダイナミックスを捉え切れていない。今後は、夫婦双方のAMの効果を同時に取り入れたモデルの検討が必要となる。さらに、本論文における知見はすべて横断的研究によるものであり、AMが個人や夫婦関係に及ぼす影響の因果を同定することまでは至らなかった。因果性の問題に関しては、今後時系列データに基づく検証や離死別経験者を対象にした研究などが求められる。
本論文全体を通じて、本人が主体性でありながら配偶者を尊重することこそが、個人にとっても夫婦にとっても適応的な心理的自立のあり方であることを示した。(熟年)離婚率の上昇、非婚・晩婚化など、夫婦関係をめぐる諸社会現象が目立つ今日、望ましい個人のあり方、また、望ましい夫婦関係のあり方を問い直して研究することの意義は大きいといえよう。