マムルーク朝時代(1250-1517)カイロの都市社会は、外来の支配エリートであるマムルークと、イスラーム的知識の担い手であるウラマー、そして在地の民衆の3集団による相互干渉の場としてとらえうるが、中でもウラマーは支配エリートと民衆との仲介役として重要な役割を担っていた。本研究では、歴史家として有名なウラマーの1人、バドルッディーン・アル=アイニー(1360-1451)を取り上げ、年代記・伝記を執筆する、君主の御前でそれを読みあげるといった、彼の歴史叙述行為が、彼の政治的・社会的活動とどのように関わっていたのかを検討した。このような目的のために本研究では、アラビア語歴史文献学の手法を採用した。
第1章「アイニーの経歴」では、同時代の年代記や人名事典の情報と、アイニー自身の著作にある自伝的記述から得られる情報とを突き合わせ、アイニーの出身家系や家族、学問遍歴、政治的キャリアについて分析した。アイニーの家系は、その祖父の代にアンカラからアインターブに移住し、祖父、父の2代にわたってその地のカーディー(法官)代理を務めるウラマーの家系であったが、祖父、父ともに、イスラーム的知識と実務官僚としての技能の双方を身につけていた。アイニーは、その初期の学問的キャリアにおいて、アナトリアおよびイラン出身の、ハナフィー派ウラマーからなるネットワークを最大限に利用して、当時のウラマー社会における人的ネットワークの一大センターであるカイロにまで達した。一方、政治的キャリアにおいては、彼の生まれ育った環境に由来するトルコ語の資質が、マムルーク朝支配エリートとの良好な関係を取り結ぶのに一貫して効果的に機能していた。このような学問的な裏付けと、マムルークたちとの人的交流によって、アイニーはムフタスィブ職、アフバース監督職、ハナフィー派大カーディー職を歴任するが、従来考えられていたようなこれら3職の同時兼任はほとんど見られなかった。
第2章「アイニーの著作」では、アイニーに帰せられるハディース学、法学等の伝承的諸学に関連する著作と、歴史に関連する著作のそれぞれにおいて、現在までに知られている情報を整理した。そして、アイニーの諸著作のうち彼の代表作である『世の人々の歴史における真珠の首飾り』(以下『真珠』と略)については、これまで知られている限りの写本情報と校訂状況を整理した。『真珠』は、写本が各地に分散し、その保存状況が複雑であるため、従来の研究では十分に検討されてこなかったが、同時代史料中の記述や現存写本に付された奥付情報、および写本それぞれの収載年代の比較から、その全体像を把握することが可能となった。アイニーは当初『真珠』を、全19巻からなる年代記として執筆したが、のちの書写の際に、それぞれの巻を2分冊し、全38巻本として編集し直した版が作成された。さらにオスマン朝時代には、当時すでに欠落していた箇所を補い合う形で、19巻本版と38巻本版の双方からの書写を合冊した4巻本版も作成された。現在各図書館で『真珠』とのタイトルが付された写本の中には、これらのさまざまな版に属する写本の他にも、異本とも言うべき内容を持つものがあり、そのことがアイニーの年代記の文献学的調査を困難にしていたのである。
第3章、第4章では、テクスト内容の比較分析から、アイニー年代記の異本の位置づけと、アイニーにとっての情報源が何であったかの確定を、文献学的手法によって行った。第3章「先行史料の引用:バフリー期の記述から」では、ヒジュラ暦728年の記述をサンプルとして、アイニーの年代記として知られる8点の写本のテクストを比較した。その結果、それらを4つのグループに分類し、それぞれを『真珠』、『真珠』の要約、アイニーの小年代記である『時代の人々の記述における満月の歴史』(以下『満月』と略)、『満月』の要約と同定した。これらのうち『真珠』と『満月』については、ヒジュラ暦725年から735年の記述にまで範囲を広げ、他の同時代史料との比較を行い、アイニーがこの範囲の記述をどのように完成させたかを明らかにした。すなわち、アイニーはまず彼が「イブン・カスィール」と呼ぶ何らかの先行史料を、記事の記載順に要約・引用して『満月』を執筆したが、その後ユースフィーの年代記など新たな情報源に接し、『満月』に大幅に加筆して『真珠』を完成させたのである。そのため『真珠』の記述は、ひとつの事象について出所を異にする複数の異聞を併記するという、この時代のアラビア語年代記の特徴である「百科全書的態度」に貫かれた内容となった。ただし、『満月』執筆の際にアイニーが参照した史料は、実際にはイブン・カスィールの年代記ではなく、ヌワイリーの著作であると考えられる。
第4章「同時代の叙述:チェルケス期の記述から」では、ヒジュラ暦801年と816年の記述をサンプルとして、アイニーの年代記とされる6点の写本のテクスト、および、アイニーによる『ムアイヤド・シャイフ伝』の記述を比較した。その結果、この範囲のアイニーの年代記もまた『真珠』、『真珠』要約、『満月』、『満月』要約の4グループに分類でき、『シャイフ伝』は『満月』と『真珠』の中間的テクストとして位置づけられることが明らかとなった。また、アイニーと同時代の歴史家であるイブン・ハジャルとマクリーズィーの年代記と比較することによって、彼ら3人の歴史家の間での情報の相互引用関係を明確にした。すなわち、アイニーの『満月』は3者の年代記の中でもっとも古い作品であり、イブン・ハジャルの年代記には『満月』から引用された記述があるが、アイニーはその後『真珠』を執筆する際に、イブン・ハジャルを参照している。マクリーズィーにかんしては、彼が『満月』を参照したかどうかは不明であるが、アイニーが『真珠』において、マクリーズィーを引用していることは明らかである。これら3者は、現実社会で競合関係や確執が存在したにもかかわらず、互いの著作を参照して相互に引用しあっており、マムルーク朝前期における「シリア学派」の歴史家集団による歴史叙述のあり方と共通する側面を持つ。
第5章「アイニーの歴史叙述の全体像」は、第1節においては前章までの考察を踏まえ、アイニーに帰せられた諸年代記の成立年代を同定し、アイニーのキャリアや社会的背景との関わりを分析した。アイニーにとっての最初の年代記『満月』は、アイニーがカイロでの定住生活を再開し、政治的キャリアを開始した時期に執筆された。その後『真珠』を執筆したのは、アイニーにとっての最大のパトロンであるスルターンのアシュラフ・バルスバーイの治世(1422-38)とほぼ重なり、アイニーがバルスバーイの御前で読みあげた歴史書とは『真珠』ないしはその要約版であると考えられる。ただし、その執筆開始時期がバルスバーイの台頭時期よりも先になることなどから、『真珠』の執筆とバルスバーイとの間に直接的な因果関係を認めることはできない。そして『満月』の要約版は、アイニーの著作ではなく、その弟のアフマドの執筆になる年代記『時代と世の人々の描写における流星の歴史と輝く月』(以下『流星』と略す)の一部をなすものであると考えうる。また第2節においては、アイニーの歴史書編纂過程で大きな役割を担った弟アフマドについて、彼が『満月』の書写本や『流星』写本において書き残した1人称での書き込み、および『流星』写本冒頭に付されたワクフ設定文書から、その経歴を可能な限り再構成した。彼のキャリアを兄アイニーのキャリアと並置することで、アフマドがアイニーの歴史叙述行為や社会的活動にいかに関わっていたかを明らかにすると同時に、同時代史料には一切情報の残されていない無名の人物であるアフマドが、どのようにしてウラマーとしてのキャリアを歩んでいったかを描き出した。
本研究はアイニーという人物の分析から、自らの保有する文化資本を歴史書執筆を通して政治的・社会的権力へと変換させる、1人の知識人の姿を浮き彫りにした。分析の過程で得られた歴史文献学的な知見は、これまで不十分にしか行われてこなかったマムルーク朝後期の史料研究の空白を埋めるものとなるだろう。そして、このようなアイニーによる社会的実践を、今後さらに他の知識人、著述家の例と比較対照することで、中世アラブの都市社会における政治と文化との関わりをより具体的に描き出すことができるだろう。本研究の成果を、これからのアラブ文化史研究の第一歩として位置づけたい。