個人の将来予測に関しては、今まで楽観・悲観(あるいは出来事の幸不幸の効果)という欧米の枠組みから捉えられることが多かった。しかし、日本人の将来予測のパターンは、幸福な出来事に関しては悲観的であり、不幸な出来事に関しては楽観的であるという傾向が見られ、楽観・悲観からは解釈することができない。著者は、これは日本人にとって特に重要な要因が考慮されてこなかったからではないかと考えた。
具体的には、その出来事を経験することによって自分のことを「中庸である、内集団から飛び抜けていない」、すなわち、「ふつう」であると考えられるかどうかという次元が、以下のように日本人の個人の将来予測に大きく影響すると予測した。すなわち、人を形容するときの「ふつう」には良い意味が付加されているため(研究2)、自分を肯定的に見る動機が日本人にもあれば、自分のことを「ふつう」であるとみなしたい動機から、それが行き過ぎて、ときに自分の「ふつうさ」を過大視すると考えたのである。この「ふつうさ」の過大視は、相対的可能性推定を用いた個人の将来予測に以下のように現れると考えた:日本人は、出来事の幸不幸にかかわらず、高頻度の出来事が平均的な人と比べて自分に起こる可能性を、低頻度の出来事が平均的な人と比べて自分に起こる可能性よりも、高く評価するだろう。このバイアスは、自分を「ふつう」と見なしたいがゆえに平均から逸脱してしまうという意味で皮肉な現象である。これを、3つの研究(研究3~5)を用いて、出来事の相対的可能性(平均と比べて自分が経験する可能性)への出来事の生起頻度の正の効果という形で実証した。出来事の生起頻度の影響は出来事の幸不幸と関係なく見られた。平均と比べた可能性である相対的可能性推定を指標としたため、その平均が「平均と同じ」よりもずれる論理的な根拠はない。そのため、これはバイアスであると言える。質問紙研究・実験室実験・郵送調査という三つの異なる手法、女子短大生・国立大学の大学生・一般の大人という三つの異なる対象を用いて同じパターンが得られたので、頑健な結果と言えよう。
このようなバイアスが生起する理由はいくつか考えられるが、著者は、以下の点から、自分の「ふつうさ」を過大視している現象であると考えた。(1)個人の将来予測における「ふつうバイアス」の大きさは、自分を「ふつう」だとみなしている程度(研究3,4,5、6)と正の相関があった。(2)日本において、人を形容するときの「ふつう」には望ましい意味が付加されている(研究2)。したがって、自分を良い存在だとみなしたいがために、自分の「ふつうさ」を過大視するというメカニズムが考えられる。(3)実際に、「ふつう」バイアスの大きさと「ふつう」を望ましく評価する程度には正の相関が見られた(研究6)。
また、「ふつう」バイアスは日本だけではなくアメリカでも見られ、「ふつうさ」を望ましく評価する人ほどこのバイアスのサイズが大きいという相関関係もやはり日米で見られた。「ふつうさ」の過大視は日本だから特に見られた現象ではないことがわかった。ただし、「ふつうさ」を望ましく評価する程度には日米差がなかった。そのため、本論文で仮定している「ふつう」が望ましいから得ようとするという心理プロセスではなく、文化にかかわらず、人間には自分の「ふつうさ」を過大視する認知的なバイアスがある可能性が示された。
個人の将来予測における「ふつう」バイアスという新たな現象を見いだしたことが、本論文の貢献であろう。「ふつう」バイアスは、個人の将来予測に関する従来の枠組みである楽観・悲観からは説明できない現象である。本論文の意義は、日本人の相対的可能性推定を西洋モデルで判断することの限界を指摘し、日本人の個人の将来予測は欧米人とは違う意味で非現実的であること、つまり、「ふつう」の方向に歪む傾向があることを示した点にある。今後の課題は前述した心理プロセスの解明および日本人にとっての「ふつう」の意味の解明だと考える。