本稿はユングにおける宗教的倫理の可能性を探る試みである。宗教的倫理とは、神と人間との関係が何らかの形で顧慮された人間のあり方を指す。ユングの宗教的倫理がどのようなものであり、そこにどういう意義を見出し得るかを考察することが本稿の狙いである。
構成は、大きく第1部(第1章-第4章)と第2部(第5章、第6章)に分かれる。第1部では悪の位置についてのユングの考えを明らかにするが、第2部で論じるユングの宗教的倫理の眼目が、善悪両面的な神との関連において人間悪への対処法を示すことにあるという意味で、第1部は、第2部の前提として位置づけられる。
第1部では、ユングが、キリスト教によって奪われた悪のありかを神の中、また人間の中に定めたということを明らかにする。ユングの見るところ、キリスト教が悪のありかを奪ってしまった。つまりキリスト教は、専ら愛と慈しみの神、「最高善」としての神について説くことで、また、悪の非存在を主張したり、悪を言い繕ったりすることで、悪からそのありかを奪ってしまった。しかし、ユングが堅く信じるところでは、悪は存在する。神の中に、また人間の中に確かに存在する。ユングには人生初期から既に、世界(自然界、人間の内面)の中に、また神の中に悪が存在するという体験的確信があった(第1章)。晩年に至ってユングは、「善の欠如」の教説批判を通じて、すなわち、この教説が前提としている神=「最高善」という規定が誤りであると示唆し、またこの教説は人間本性の悪の存在を否定していると難じて、悪が神の中に、また人間の中に存在するということを暗に主張した(第2章)。また、神を父、子、聖霊、悪魔の四位一体として規定する四位一体論を提示することで、悪が神の中に存在するということを明示的に主張した(第3章)。さらに、人間の本性には、共存していくよりほかない、克服・根絶不可能な実体的な悪としての「影」が具わっていると説いて、悪が人間の中に存在するということを明示的に主張した(第4章)。
第2部では、ユングの宗教的倫理について論じる。ユングの宗教的倫理には、神話的なものと理論的なものとがある。神話的な宗教的倫理は『ヨブへの答え』に語られている。ユングは同書で聖書やマリアの被昇天の教義の解釈を通じて、神および人間の本性、神の意志、また道徳についての見解を作り上げ、それらを散りばめて人間のあり方を神話の形で語り、第二次世界大戦で露呈したような人間の巨悪の問題と直面した同時代人に提示しているが、本稿ではその神話を「倫理的神話」と呼ぶこととする。その要点は、神と人間が助け合いながら互いの内なる善と悪の対立の統一を果たし、最終的には人間の中で悪を善で飼い馴らすという境地が実現されるという物語である。倫理的神話を語ることで、ユングは同時代人に悪との対決の意味を教えようとしたものと見られる(第5章)。理論的な宗教的倫理は「倫理的良心」の思想である。「倫理的良心」とは、善悪混淆する「神の声」としての良心に人間が「意識的吟味」を加えることで成り立つものである。人間が倫理的良心に従うということは、無道徳な神の声に聞くことによって既存の道徳律の縛りを一旦超えたところへと導かれ、その境地から改めて神の声に意識的吟味を加えて悪を斥け善を選び取るということを意味する。倫理的良心に従うことで人間は、道徳律に縛られることなく、また神に唯々諾々と従うのでもなく、言わば根源的な善の判断を下すことが可能になり、真に人間的なあり方に到達できるとユングは考える(第6章)。
終章である第7章では、前章までの議論を踏まえてユングの宗教的倫理を規定し、その意義について考える。ユングの宗教的倫理とは、善悪両面的な神との関係の中で、人間が意識において善と悪の対立を統一し、あるいは善と悪を吟味し、意識において悪を善によって制御する、あるいは悪を斥け善を選び取るというあり方のことである。神に対して人間が果たさなければならない、あるいは神のお蔭で人間が果たすことができるようになる心のあり方がユングの宗教的倫理の内容をなす。そして、ユングの宗教的倫理の意義は、①神と人間との相互関係を重んじるものであり、宗教と倫理の関係に関して、一方が他方を基礎づけるというのではなく双方が規定し合う「宗教も倫理も」という豊穣な立場である、②規範ではあっても人間を拘束するものではなく、むしろ真に人間らしくあることへと人間を解放するものである、③特にユングの倫理的神話は、教条的にではなく人間の主体性に働きかける生き生きとした意味を帯びたものとして倫理を提示し得る、④悪への対処法を示すことを倫理的思索の中心に据えるという視座そのものが価値あるものである、という四点に見出すことができる。