第一章によって述べられた通り、従来、台湾・福建・浙江南部の彩文土器を提起する際に、各地の文化性格や時期区分を考えずに、彩文土器のみをもって文化類縁を論ずるのは普通である。このようなやり方で台湾と大陸東南沿海地域との彩文土器の起源やそれに関わる先史文化の実態をいまだに解明することができないといわざるをえない。本稿は最新の考古学成果を取り入れ、地域ごとに彩文土器が出土した諸遺跡の文化性格・時期区分をしっかり検討した上で、各地の彩文土器に関する先史文化の編年を立てる(第二、三章)。さらに、これらの地域編年に基づいて、彩文土器を通じて、地域間の編年と可能な接触関係を論ずる(第四章)。本稿の彩文土器の研究によって台湾・福建・浙江南部において彩文土器の時期区分・起源問題と三地の先史文化の関係を明らかにすることができた。本稿によって得られた理解は、次のようにまとめて述べられる。
一、台湾の彩文土器
本稿の検討によると、台湾の彩文土器を次の二つの系統にまとめることができる。
(一)大坌坑文化の赤色彩文土器伝統とその持続発展:新石器時代前期・中期・後期
台湾の彩文土器については、新石器時代前期の大坌坑文化からすでに少量の剥落しやすい赤色線列や点状の彩文土器とまとまった量の赤色スリップをもつ土器が現れはじめた。この彩文土器の伝統は、新石器時代中期の細縄蓆文土器文化を経て、後述する三つの外来彩文土器の一部影響を受けながら、新石器時代後期まで持続したことが第二章の検討によってわかる。
新石器時代後期のこの系統の彩文は、細縄蓆文土器文化後期や新石器時代中期末(芝山岩遺跡第4層)に新たに現れる一部の彩文図案を吸収し、大坌坑文化の彩文土器の伝統に基づいて、新たな彩文図案を表現しようとする現象がみられる。例えば、台湾北部において細縄蓆文土器文化後期の太線と細線交互に施されるV字彩文を表現する施彩方法は、新石器時代後期の円山文化になっても見られ、細縄蓆文土器文化後期に新たに現れるV字彩文図案は大坌坑文化以来の固有赤色彩文土器伝統によって吸収されて再表現されるものであることが窺える。また、円山文化のこれらの彩文は伝統的な作りの土器に施される。
(二)台湾の外来の彩文土器の起源問題
台湾における大坌坑文化以来の固有の赤色彩文土器という系統を除けば、外来の彩文土器と考えられるものは、細縄蓆文土器文化後期(新石器時代中期後半、台湾北部の万里加投、澎湖の鎖港・南港遺跡、V字・格子・人字彩文・太線と細線交互に施されるV字と人字彩文など)、北部の芝山岩遺跡第4層(新石器時代中期末)、南部の鳳鼻頭遺跡上層(新石器時代後期)であることが第二章の検討によってわかる。
台湾のこの三つの彩文土器の出土層位・性格と伴出した遺物はそれぞれ異なることから、前後にして台湾にやってきた可能性が考えられる。台湾におけるこの三時期の彩文土器は次の通りである。
1.一つは新石器時代中期後段階(細縄蓆文土器文化後期)にわずかながら現れた赤色V字・格子・人字彩文などである。前述した通り、これらの彩文土器は福建の庄辺山上層類型と類縁性を有する。しかし、この時期に福建から入ってきた一部の要素がみられるものの、その文化主体は依然として大坌坑文化から発展してきたものである。
2.その次は新石器時代中期末の台湾北部の芝山岩遺跡第4層の精巧かつ薄手の赤色半硬質黒色彩文土器である。台湾において、この芝山岩遺跡第4層の時期からはじめてまとまった量の黒彩土器・灰黒色土器・赤褐色やや硬質土器・少量の格子印文・人字平行線列印文・黒色スリップ土器・多量の骨角器と木器・稀な釉のような光沢をもつ褐色スリップが施される鉢などが伴存して現れる。芝山岩遺跡第4層の遺留は台湾北部においてみられないものであり、しかも福建東北部の黄瓜山遺跡の庄辺山上層類型の遺物と類似することから、この遺留は一時的に福建、特に福建の東北部から少人数の移入によって形成されるものと筆者は考える。
3.最後は新石器時代後期の台湾南部の鳳鼻頭遺跡上層の多量の赤褐色彩文半硬質土器であり、多量の灰色土器と薄手磨研黒色土器(芝山岩遺跡第4層の器形や文様と異なるもの)・格子印文・蓆印文・カゴ印文と多量の骨角器などと伴存して現れる。これらの赤褐色彩文土器の硬度はより高いだけでなく、彩文は剥落しにくい点も台湾の固有の彩文土器と異なるところである。鳳鼻頭遺跡上層の遺留は台湾においてみられないものであり、その遺物は福建閩江下流域の庄辺山上層類型のものと類似しており、しかも前述した通り鳳鼻頭遺跡上層や亀山遺跡と庄辺山上層類型の彩文土器の各元素の含量はほぼ一致することから、台湾南部のこれらの彩文土器を含む遺留は、福建閩江下流域の庄辺山上層類型の遺跡からものの搬入だけでなく、少人数で台湾南部に移住してきた可能性が強い。この移住ルートは大坌坑文化にすでに存在していた福建東部沿海―澎湖―台湾南部というルートと一部重なる可能性が大きい。
二、福建・浙江南部の彩文土器
福建において、彩文土器は最も早くから閩江下流域の曇石山文化前期に現れはじめるが、曇石山文化後期に至るまで彩文土器は依然として稀である。第三章によると、本稿は曇石山文化の遺留を良渚文化の出現によって前後二期にわける。この時期に浙江南部においてまだ先史文化が現れていない。その後の庄辺山上層類型になると、同じ閩江下流域において、彩文土器は盛んとなり、庄辺山上層類型の一つの重要な特徴にもなっている。庄辺山上層類型の彩文土器は閩江下流域のみならず、福建東北部(黄瓜山遺跡下層が代表とする)にまで分布する。その後の庄辺山上層類型末から黄土侖類型に至る時期になると、福建東北部における彩文土器の持続的な発展(黄瓜山遺跡上層)がみられ、しかも東北部のほとんどの地域から彩文土器が検出される。また、この庄辺山上層類型末から黄土侖類型の時期になると、東北部だけでなく、福建各地・浙江南部と台湾からも少量やまとまった量の彩文土器が検出される。その中で、福建の彩文土器のおわりの年代については、従来は庄辺山上層類型の時期に限ってしかみられない(第一章を参照)とされたのに対して、本稿の検討によって、福建や浙江南部の彩文土器は黄土侖類型やもっと遅れる時期まで持続していたことがわかる。例えば、福建東北部黄瓜山遺跡・浙江南部において彩文土器と伴出した土器には、すでに黄土侖類型やより遅れる要素(例えば典型的器形や文様・釉・刻劃符号等)がみられる。
三、結語
約6,000B.P.あるいはもっと前から、台湾の新石器時代前期の大坌坑文化の一部の要素には、福建の東部沿海地域の殻丘頭遺跡下層・曇石山遺跡下層・曇石山文化前期等に見られるものが現れ、しかもこれらの遺跡の土器には赤色スリップをもつものがみられる。その中で、大坌坑文化と曇石山文化前期から少量の赤色彩文土器が出土した。次の時期になると、台湾全島が新石器時代中期の細縄蓆文土器文化に入るのに対して、福建側は閩江下流域の曇石山遺跡中層・庄辺山遺跡下層・渓頭遺跡下層などを代表とする曇石山文化後期に移行する。台湾の細縄蓆文土器文化と福建の曇石山文化後期の時期には、台湾と福建において依然として少量の赤色彩文土器しか発見されていないが、両地ともに鼎などの新要素が現れ始める。その後、年代の進行につれ、台湾や福建の東部沿海地域だけでなく、福建の東北部や浙江南部などからもまとまった量の彩文土器が検出されているが、それらの彩文の色は赤色に限らず、赤褐色・褐色から黒褐色・黒色までみられる。この各地の時期や遺存については、台湾における新石器時代中期から後期に移行する移行期にあり、福建における曇石山上層・庄辺山上層などに当たる時期や遺存である。その後、台湾の新石器時代後期と福建の黄土侖類型になると、地域によって彩文の数が減り、ついになくなる現象がみられる。その後、台湾は金属器時代に、福建は歴史時代初期にそれぞれ入るにつれ、彩文土器の形跡はほとんどみられなくなる。
また、曇石山遺跡下層と曇石山文化の土器には常に縄蓆文や条印文の上にさらに一枚の赤色スリップを施すという伝統は、庄辺山上層類型になると、大量の各種印文の上にさらに赭色や黒色のスリップを塗る着黒土器、と一部の印文の上にさらに彩文を重ねて施す彩文土器によって承継され、さらに発展する。下層の赤色スリップは中層の彩文に変わり、もともと縄蓆文や条印文に加えるスリップの機能はまだ残っているからである。このような印文の上にさらに彩文を施す現象は、台湾の大坌坑文化の赤色彩文をもつ縄蓆文土器(図C2-2)と山佳遺跡や芝山岩遺跡第4層の方格印文の上に交叉線列黒色彩文を重ねて施すもの(図C2-6-65,66)などにもみられる。注意すべきなのは、福建や台湾のこのような印文の上に彩文を施す施彩方法は、ほぼ同時期の華北の仰韶文化の彩文土器と完全に異なることである。
台湾における細縄蓆文土器文化前期・細縄蓆文土器文化後期・芝山岩遺跡第4層・鳳鼻頭遺跡上層などの新要素が現れる時期はちょうど台湾の文化変容(新石器時代前期→中期、中期→後期)の時期と一致することから、台湾の文化変容の主な動因は外来要素、特に福建からやってきた何回かの外来要素である可能性が強い。これに対して、福建における曇石山文化前期から後期への移行には良渚文化後期、曇石山文化後期から庄辺山上層類型への移行は雲雷文様などの新要素、庄辺山上層類型から黄土侖類型への移行には青銅器の器形や装飾技法・複雑な雲雷印文などの新要素がともに現れることから、これらの新要素が福建の文化変容に影響を与えたと筆者は考える。福建における外来の影響は主に浙江や周辺の大陸東南地区からやってきたものであるのに対して、台湾のこれらの外来要素は主に福建からやってきたものである。ところが、これらの時期に台湾から福建やほかの大陸東南地区への逆行影響はあまり見られない点に注意すべきである。
台湾における、前述した三つの外来の彩文土器の出現年代は、ちょうど台湾の主な文化変容の発生年代とほぼ一致する。これらの外来要素の到来によって台湾の新石器時代の文化変容が起こった可能性があると筆者は考える。しかし、台湾におけるこれら外来の彩文土器の出現は、文化変容にとって多少の影響を有するものの、新石器時代の文化性格を動揺させる力はもっていない。例えば、外来要素と考えられる細縄蓆文土器文化後期・芝山岩遺跡第4層や鳳鼻頭遺跡上層の彩文土器が台湾に現れてきたものの、まもなく固有文化によって吸収・融合され、固有文化の一部として生まれ変わる。その背後に、台湾において大坌坑文化以来の固有文化の主体性と強い制約性が示される。この固有文化の強大さこそ、台湾には彩文土器を含む何回の外来影響があったにもかかわらず、自分なりの先史文化の発展コースを歩むことができた理由ではないかと筆者は考える。
しかし、この時期の彩文土器はなぜ現れるのか?本稿の彩文土器の研究を通じて、“幾何学形彩文”という文化要素は、主に福建の閩江下流域から福建の東北部へ、そして東北部から周辺地域の浙江南部・閩江下流域・福建の西部や南部へ影響を及び、さらに台湾海峡を越えて台湾まで拡散してきた。これらの彩文土器は小人数の移入と搬入品の形で現れるものもあれば、文化の接触などによる“幾何学形彩文の概念のみの伝播”によって各地の先史文化によって吸収・融合されてから、当地の伝統の土器伝統に基づいて再表現するものもみられる。ただし、このような物の伝播や人間の拡散は最初閩江下流域から福建東北部にやってきた後、東北部から逆行して再び閩江下流域に伝播したほか、ほとんど片方向の形で止まり、被伝播地(台湾・浙江南部や福建のほかの地区)から逆に閩江下流域や東北部に影響を与える現象はあまり見られない。また、これらの地域において次の共通点を有する。福建の閩江下流域と福建の東北部において彩文土器の起源や発展過程をはっきりたどることができるのに対して、ほかの地域は彩文土器の発展過程が見られない。また、年代的にいえば、これらの地域の彩文土器の年代はほぼ庄辺山上層類型・黄土侖類型に相当するものである。これらの彩文土器は幾何学形印文土器の盛衰とともに発達したり衰微したりしになり、しかも土器作りと器形だけでなく、印文土器と似たような幾何学形文様を装飾する彩文土器の出現は、このような幾何学形文様を表徴とする先史文化の発達を語る一つの重要な特徴ではないかと筆者は考える。この時期に福建閩江下流域と福建東北部の彩文土器は周辺地区への(人間)拡散や(物のみの)伝播などの背後に、より発達した文化の周辺のあまり発展していない文化への一時的な影響と理解してもよいであろう。
本稿の彩文土器の研究を通じて、台湾と福建において次の二つの伝播(物)や拡散(人間の移動)ルートが存在する可能性が強いと筆者は考える。一つは福建→澎湖→台湾西南部というルートであり、このルートは台湾の新石器時代前期の大坌坑文化の時期にすでに存在する。大坌坑文化後期になると、台湾南部の南関里遺跡からまとまった量の澎湖のカンラン石玄武岩の石器が出土したことと、福建南部の大帽山遺跡から澎湖群島のカンラン石玄武岩と似たものが発見されたことを加えて、この時期に台湾南部↔澎湖や澎湖↔福建という双向的な伝播や拡散も頻繁的であったと筆者は考える。また、大坌坑文化の時期に、台湾北部の大坌坑文化と福建の殼丘頭遺跡下層にはそれぞれ異なる少量の浙江の河姆渡文化の要素が見られることをみると、当時浙江→台湾北部と浙江→福建という二つのルートもあった。もしこれらのルートが成立すれば、大坌坑文化あるいはもっと古い時期から、大陸東南沿海地区・台湾海峡の島嶼(例えば澎湖群島)と台湾本島の間に接触ネットワークはすでに形成することとなる。各地域のこのような密接な接触と海洋向けの立地は、この時期の台湾と大陸東南沿海地域の先史文化をかなり似た文化性格を持たせる重要な原因であろう。その後の台湾の新石器時代後期になると、即ち福建の閩江下流域の庄辺山類型上層末・黄土侖類型とその後の東張上層類型の時期に、台湾南部の鳳鼻頭遺跡上層や亀山遺跡から福建の黄土侖類型と東張上層類型の要素が出土し、しかも亀山遺跡と庄辺山遺跡上層の彩文土器の各元素の含量が一致するをあわせてみると、この時期に福建の閩江下流域→台湾南部という伝播(物)や拡散(人間の移動)ルートが持続に使われる可能性が強い。
もう一つは福建東北部→台湾北部というルートである。このルートの出現はより遅れて、即ち福建の庄辺山上層類型晩期、台湾の新石器時期中期末(北部の芝山岩遺跡第4層が代表とする)時期である。台湾北部の芝山岩遺跡第4層には一部の浙江・福建東北部と閩江下流域の要素がみられ、その立地から、福建東北部の黄瓜山遺跡等から芝山岩遺跡第4層への接触ルートが存在する可能性が強いが、今後の研究が待たれる。