第一部では、新たな国家指標の可能性を探るため、国家による勧農政策や宗教政策について、八・九世紀の律令国家を素材として検討を行った。
第一章「百姓撫育と律令国家」は、これまでほとんど検討されてこなかった「撫育」という律令国家の政策に注目した。「撫育」政策とは、①税を百姓から収奪するために行われる政策と、②天皇の仁徳を示し、百姓の生活が安定するように行われる政策である。八世紀の律令国家は地方行政監察使・国司などを用いて百姓に撫育を施していたが、九世紀以降になると次第に使者派遣を行わなくなり、九・十世紀の交以降は、国家は国司に完全に撫育を委任するようになってしまうと論じた。
第二章「神祇官の特質」は、律令国家の神祇官・神祇行政を検討した。神祇官がなぜ太政官と並列される「官」であるかという疑問から出発し、地方神社行政のあり方を探ることで、神祇官は、幣帛の授受を介して、地方社会と直接的な関係を持つことができたため「神祇省」ではなかったが、九世紀になると律令国家の展開により、多くの幣帛は国司を介して各神社に授けられることとなり、その結果、神祇官は実質的に神祇「官」ではなくなったと論じた。
第三章「神社社殿の成立と律令国家」は、神社社殿の成立時期について、律令国家との関係に留意しながら検討した。神社社殿がいつ、どうして成立したかについては、多く研究があるものの、これまでの研究成果を充分に汲み入れつつ、論じたものはあまり存在しない。そこであらためて研究史整理を行うことで、神社社殿成立の時期について詳細に検討した。
これらの検討により、律令国家が単純な収奪・抑圧機構ではなく、支配を正当化するような理念を持ち、さらには実際に「撫育」や幣帛・神社社殿などにより、民衆の生活を安定させるような政策を行っていたことを明らかにしえた。
第二部では律令国家がいつ、どのように新たな国家へと変質していくのか、つまり過渡期における朝廷や国家のあり方について、変化する時期にも注意を払いながら、考察した。
第一章「九世紀後期における地方社会の変転過程」は、東国における帯剣・神階勲位・地方陰陽師や考古学的成果から地方社会の争乱状況を検討し、古代社会が九世紀半ばに変化すると解せることを述べ、さらにその原因として国家による政策の変化があったと論じた。
第二章「九・十世紀の不堪佃田・損田と律令官人給与制」は、第一部第一章で地方行政監察使について検討したとき、多くの地方行政監察使は九・十世紀の交に地方へ派遣されることはなくなるが、特例として不堪佃田使・損田使のみ十世紀半ばまで派遣されていると論じた。そこで本章では、なぜ不堪佃田使・損田使のみ特例なのか、当時の気象状況や国家財政のあり方を含めて、検討した。
第三部では、いわゆる摂関期における朝廷の支配理念について、天皇のあり方を含め、さまざまな視点から論じた。
第一章「摂関期における地方支配理念と天皇」は、祥瑞・勧農・受領罷申儀の検討を行った。これらの検討により、地方政治に対する天皇・国家のあり方が、十世紀中葉において確実に変化しており、さらに、摂関期の天皇は少なくとも理念的には全国を支配することのない、新たな天皇へと変貌したと論じた。
第二章「摂関期の災害対策と災異思想」では、実際に災害・怪異が生じたとき、摂関期の朝廷はどのような対策を採るのか検討し、その災害・怪異の性質によって、また、災害が生じた地域によって、朝廷や天皇の対応が異なることを論じた。