本論文では、日本列島における銛猟について、型式学な研究、技術論的な研究、民族考古学的な研究の3つのアプローチによる研究を行なった。
第1部第1章では、獲物の行動生態への対応などの側面を知るために、道北礼文島における現代のトド猟への同行調査と聞き取り調査を行った。狩猟目的の変化や道具の技術的改良にも関わらず、先史時代と同じ構造の銛が回収用の道具として現在も使用されている。
第2部第1章では、北海道の縄文時代の銛頭の編年を行い、これを形態と素材によって整理した。前期~後期を通じて北海道の銛頭は形態・素材の対極性・多様性で特徴づけられるが、晩期になるとこれは解消される。また銛頭と動物遺存体の関係を縄文後期の事例について検討した。船泊湾と噴火湾ではアシカ類の特定種の幼若獣に特化した狩猟が行われていたが、銛頭の形態的発達がみられる時期には成獣を含む回遊群に対する狩猟の比重が高かったという結論が導かれた。
第2部第2章では、燕形銛頭について論じた。起源論の研究史の整理、東大総合研究博物館所蔵の大洞貝塚資料の報告、起源論についての考察を行った。大木囲貝塚出土資料は、「大木型」開窩式銛頭と砲弾形閉窩式銛頭を繋ぐ可能性がある。宝ヶ峯遺跡の1類・2類は古段階の燕形銛頭(後期中葉~末)に相当する。前期以降東北地方に存在した砲弾形閉窩式銛頭から宝ヶ峯1類・2類が発達し、雄形銛頭の「索孔銛文化圏」において導入された結果、典型的な燕形銛頭が成立したと考えた。
第2部第3章では、いわき地方の閉窩式銛頭を寺脇型・真石型・薄磯型に分類し、層位的出土状況を再検討した。従来主流であった編年観とは逆に、寺脇型を後期末~晩期前葉に位置づけ、真石型がこれに置き換わると考えた。仙台湾・三陸地方との関係をみると、晩期中葉までは一貫して地域差がみられるが、頭部形態の変遷過程は対応する。このように技術的共通性を有しながらも独自性を保っていた両地域の関係が晩期後葉以降に変化し、弥生中期前半に薄磯型が出現したのだろう。
第3部第1章では、続縄文前半期に発達する多様な銛頭を扱うために、まず銛頭の分類基準を整理し、抵抗機能と柄装着方法による分類基準を組み合わせて、続縄文時代の銛頭を第1種~第5種に分類した。資料が豊富な道南部の第3種(閉窩回転式)を4段階に編年した。論議の対象となってきた第2種(閉窩鉤引式)の出現過程については、第1種と第3種からそれぞれ鉤引式と閉窩式という要素を受け継いでまず尖頭のA群が成立し、後に刃装着面をもつB群が生じたと考えた。
第3部第2章では、弥生時代の三浦半島、東海地方、西日本の銛頭を対象とした。各地域における横方向索孔をもつ銛頭の出現過程が多様で一律ではないことから、横方向索孔という規制を伝達し固執するような強硬な伝播プロセスではなく、閉窩回転式という構造が各地で変更を加えながら取り入れられていくような柔軟な受容プロセスを想定した。東日本的な閉窩式銛頭の分布は基本的には関東地方までであり、伊勢湾沿岸は西日本的な様相を示す。西北九州には少なくとも弥生時代から古代に至る組み合わせ式銛頭の伝統があり、山陰地方の銛頭と密接な関連をもって変遷していたといえる。
第4部第1章では、トコロチャシ跡遺跡出土のオホーツク文化のⅠ類銛頭とアイヌ文化のⅣ類銛頭について主に製作技術の観点から検討を行った。後者のソケットにみられる縦横二方向の穿孔を伴うトコロチャシ技法の存在によって、従来から想定されてきた「窩が深くなり閉じていく」過程を製作技術の面から説明することができる。
第4部第2章では、モヨロ貝塚出土資料について論じた。10号竪穴出土資料の主体を占めるのはⅠ類(前田A群)で、藤本d群期の床面からはⅠ類と雄形が出土している。またⅠ類の破損と再生の様相を検討し、従来想定されていた頭部・尾部の削りによる再加工Ⅰに加え、索溝と柄溝を新たに作出する再加工Ⅱの存在を指摘した。銛頭の長さの分析から、再加工Ⅱは香深井A遺跡でも行われていた可能性が高く、オホーツク文化に特徴的な再加工プロセスだったといえる。
第4部第3章では、香深井A遺跡から出土した銛頭模造品を手がかりにして、銛頭模造品と小型銛頭について論じた。頭部に石鏃を装着した状態を一木造で表現し、形態や構造は前田C群銛頭を模した資料で、類例は鈴谷貝塚から2点出土している。同遺跡出土の小型D群銛頭もやはり実用品ではないと考えたが、モヨロ貝塚出土の小型銛頭については、数の多さと破損状況から実用品だったと考えた。模造品の用途については、海獣狩猟にかかわる儀具であった可能性が高い。
第4部第4章では補論として、サハリンのオホーツク文化の銛頭の分類、神恵内観音洞穴における銛頭の層位的変遷、アイヌのキテの分類等について、簡単に論じた。