『地下室の手記』に同義語として並んで出てくる«личность»と«индивидуальность»という2つの概念は、「自由」の問題を考える上で重要なものである。両者は「個性」「個人」「人格」といった意味合いをもち、意味において重なる部分は多いが、ニュアンスの異なる面も感じられる。これら2つの語の使用頻度と使用箇所を、webサイト«ВесьДостоевский»で公開されているコンコーダンスを利用して調べ、用例を詳しく見ていくというのが拙論のテーマである。
«личность»は«индивидуальность»に比べ、圧倒的に使用回数が多い(162回)。初期作品ではほとんど用いられなかったが、『死の家の記録』で急に使われるようになるのは、シベリア流刑を通して、「民衆の中の«личность»」を発見したことによるのであろう。その後、「自我」の思想が深められていくことが«личность»の用例を見る中で分かるが、『夏象冬記』において、キリストや殉教者の自己犠牲の姿という«личность»の最高の発展段階が示されている。また、『作家の日記』では「民族の«личность»」というテーマが盛んに語られる。その一方で、「誹謗の言葉」という旧来の意味での用例や、単に「人(человек)」を意味する用法も時折見ることができる。
«индивидуальность»およびその同根語の使用回数は少ない(10回)が、重要な場面で使われているケースもある。概して、「切り離された個」という語のもつニュアンスが感じられる用例が多い。また、ドストエフスキーはこの概念に概して肯定的な意味を付していたことがうかがえる。作家としてデビューする以前の仕事であるバルザックのロシア語訳において、ドストエフスキーはなぜか«personalité»を«индивидуум»と訳しているのに気付く。しかし、テキストを詳細に見ていくと、«личность»ではなく«индивидуум»を用いなければならない必然性が明らかになり、また個性的な訳の中に後の作家の思想の萌芽を読み取れることが分かってくる。
«личность»の用法の分類については、先行研究を批判したうえで、筆者独自の分類法を提示した。また、А.С.プーシキン(1799-1837)、А.И.ゲルツェン(1812-70)В.Н.ロースキー(1903-58)という3人のロシアの作家・思想家における用例も簡単に見、思想史的比較の視点も設けた。