近代より西洋では、キリスト教が社会的な影響力を失うなか、人間存在のコミュニカションが益々薄弱なものになっていくことが実感された。それに伴い、人々が精神の拠り所としていた伝統的な共同体のなかで様々な分裂が生じた。このような「近代性の問題」を論ずる思想は、一方においてはその問題を考える上で形而上学からの思想的な脱却を図りながら、結果として理性と主体を思考の中心に置く「理性哲学」の考察方法を継承したヘーゲルやハイデガーに代表される思想系譜をなした。そして他方では、「理性哲学」の思考方法からは完全に離反し、ニーチェが初期の探究において理論の面で発展させた、ドイツ・ロマン派による美学の分野での探究や、後に到っては様々な非哲学的な視点から考察を展開した思想の系譜があらわれた。こうした思想系譜はそれぞれ、近代から発生したコミュニカションの問題の解決を図った。
ハバーマスなどは、「近代性の問題」を論ずる美学的な探求の幾つかの重要な理論及び表象の分野における探究が、ニーチェの後継者を自任し、前衛芸術であるシュルレアリスムとの関係を己の創造の糧としてきたフランスの作家・思想家ジョルジュ・バタイユの思想と表象においてあらわれたことを暗に示した。本研究では、現代社会における人間存在のコミュニカション及び共同体の新たな可能性を目指すバタイユの探究が、彼にとって詩的表象の本質をあらわすポエジー概念及びその思想に結実したとみて、この思想家がそれらを展開することを通して現代思想の世界において如何なる貢献を果たしたかを考察した。
本論の第一部では、バタイユが、生涯を通じて論じようとしたコミュニカションの発生及び新たな形での共同体形成の可能性が、不特定な時代ではなく、20世紀において求められるものであるとし、比較的早い時期からそれらを表象の領域で追究することになった彼の論理及び主張の変遷について主に検証した。
第二部では、「言葉が犠牲になる供犠」といわれるポエジー概念が由来し、生々しい生贄の儀式のイマージュによって象徴され、「生の過剰性」をあらわし、死の現象に対して人間存在が抱く「不安」を反映する「存在開示のプロセス」としての供犠の実態を捉え、それが演劇的な効果に依拠している部分が多いことを確認した。さらに、原典との照合を行なうことにより、供犠の根底にある論理が、『精神現象学』の一部、なかでも共同体内での人間存在の結びつき及びコミュニカションを強化する上で、芸術、特に讃歌や抒情詩などの「言葉を介した芸術」が果たす役割の優位についてヘーゲルが語る章である「B.芸術宗教」の思想にバタイユが異を唱えたことで形づくられたことをみた。そしてバタイユが、「意味を持つ言説」に対して言葉の秩序を根底から崩し、有用性の原則から完全に逃れ、話し言葉のような「率直性」と「親密性」を特徴とすると同時に、「不可能」であり、「既知のもの」から「未知のもの」へと導くポエジー概念の創造につながる己の思想を発展させたことを確認した。
つづく第三部においては、『内的体験』のテクスト自体の検証に移り、まずは「刑苦」の部を中心として分析することで、同書全体を構成する各章の内容や形式が、標榜されるポエジーの思想をあらわすために連動して機能していることを確認した。その表象の流れのなか、バタイユが、詩人ランボーや、近・現代社会において宗教の影響力が低下するなかで表象の役割について語ったキルケゴールなどの知識人の思想について論じていることから、同書がそれらのテーマによって貫かれているとする確信を得た。表象に関する思想は常に彼の存在論と一体となっているが、バタイユはそうしたなか、『内的体験』で、理性哲学による「近代性批判」の基礎をなす、言説に依存する「主体を中心とする思考」の考えに反撥し、人間の存在主体を、「荒々しい存在の本質をなす『自己』」と、「知識に影響される『私』」に分けた。そして彼は、20世紀に生きる人間存在がコミュニカションを行なう必要があるなか、その「自己」が「私」に変化することなく、「ポエティックな実在」が他者における別の「ポエティックな実在」に働きかける構図を、「観劇」の装置に喩えながら、ポエジーの思想に基づく自分の存在論で説明した。
バタイユはさらに「未知なる性質」を持つポエジーのあらゆる可能性を把握するべく、最後の「余談」の章では、『失われた時を求めて』においてポエジーの働きとして描かれる「再認」が「知識」と深く結びついていると捉え、コミュニカションの発生を司るポエジーへの表象主体自身による「所有」の主張といったテーマについて論じた。こうしたことを考えることで、『内的体験』のテクストが全体として「近代性の問題」における表象の役割に関する課題をあらわしていると捉えた。
主に『内的体験』を分析した本研究によって、著者が辿った「詩的表象」に関する思想の行程が持つ意味と意義を認識した。このことから、その思想家が「供犠的な表象」及びポエジーの思想に関する探究によって、20世紀という、自分が身を置いていた時代のなかで人間存在のコミュニカションを成立させ、共同体を強化し、表象の上で理性及び言説的な要素に対して徹底して抵抗する意志をあらわし、ポエジーの「過剰性」並びに豊かさを具現する思想及びエクリチュールを展開したことを確認した。このことから、バタイユが、ポエジーという独自の思想を表わすことで、表象の領域において、理性哲学の原則から脱し、前衛芸術としてのシュルレアリスムの根本理念が目指した以上の「近代性の問題」に関する美学的な探究を進展させた思想家として、文学及び思想の歴史のなかで位置づけられるべきだとする結論を導いた。