本研究は、「六藝」「六経」という語に代わって「五経」という語が普及浸透した後漢時代初期から、別行していた経と伝が一つのテキスト上に合併されたことの恩恵に与り、且つ紙が普及してきたことの恩恵にも与ることできた後漢時代後期のおおむね鄭玄の活躍期あたりまでの経学を考察対象としたものである。
本稿は、全六章・結語・参考文献一覧から構成される。第一章では、いわゆる《儒教の国教化》説が役割を果たし終えたことを述べ、その次の段階に移るべきことを説き上述した本稿の研究範囲を明示した。そして、後漢経学をどのように描くべきかを考えるために、従来の後漢思想(史)の叙述における問題点を指摘し、本稿の構成と企図する所を述べた。
第二章では、後漢経学(史)のはじめに位置する問題として、①「六経」「六藝」両語にとって代わった「五経」という語の普及浸透、②讖緯の流行、③「古学」修得者の活躍、という後漢初期の三つの現象の関係を考察した。その結果、三者の関係は、「五経」という経の総称のもと、皇帝権力を背景に「経」化した讖緯が五つの経の紐帯的役割を担って五経の縛りを強固にし、当時勢いを得つつあった「古学」修得者がその「全体で一となった」五経をまとめて修得した、ということが明らかとなった。「古学」修得者は、讖緯を受け入れないことで、彼らは自らの中で本来あるべき経学の姿を保っていた、と思われる。
第三章では、「古学」修得者の一人として王充をとりあげ、王充の経学に対するスタンスを考察した。王充をとりあげたことにより、「古学」修得者の一つの態度が明確になった。王充は経学のみならず経学以外の諸学をも学び、該博な知識を身につけることで、王充の意識の中で経学は相対化された。王充は自らの理想的人物とした桓譚の「論説」の態度に倣い、自らも「論説」することで、自らの中で相対化した経学に対しても「虚妄を疾む」メスを入れた。これにより、王充は、少なくとも「虚妄」に蔽われる以前の本来あるべき経学の姿を取り戻したかったのではなかったか、と思われる。
第四章では、諸生による継承(学習)と師による伝授(教育)の両面から、後漢時代における経学の継受を分析した。経学の学習については、経の暗「誦」を経たあとの「通」という状態について検討し、従来の「通」の定義に修正を加え得た。一方、師からの経学の伝授については、一つの家で代々特定の経を受け継ぐ「伝」という営為と、自らの門弟に特定の経を伝授する「教授」という営為を検討した。その結果、三代続けて同じ学問を継承すると「家学」となることが分かり、また「教授」する者には、山に身をかくしたり、「隠居教授」するなど、官界や俗世間に関与したくないという意識をもつ傾向の強いことが分かった。いずれも自己の経学を本来のあるべき姿で保持したいという姿勢と思われる。
第五章では、後漢時代の学問ジャンルを調査し、後漢時代の経学と諸学の関係を考察した。考察の結果、黄老(『老子』)は『易』との併修、術数は『(京氏)易』や他の経書との併修、兵法は『春秋』との併修がそれぞれ確認された。これにより、後漢時代の学問ジャンルは、『七略』の経学的世界の枠内にすべて組み込まれていたことが理解できた。理念としての『七略』の学術分類と現実としての学問ジャンルとに齟齬が無かったことは、当時の多くの儒者は、経学の本来のあるべき姿として、『七略』の学術分類を支持した、ということを意味する。
第六章では、後漢時代に大小様々な規模で断続的に行われた経義・経文の正定という営為をとりあげた。これは、まさに経学を本来あるべき姿に戻すための営為にほかならない。後漢時代における経義・経文の正定の事例を時間順に並べてみると、従来後漢思想(史)において大きくとりあげられてきた白虎観会議の挙行と熹平石経の建立という両事業も、後漢時代に大小様々な規模で断続的に行われた経義・経文の正定という営為の一齣にすぎないことが理解でき、両事業を過大にとりあげる必要はない、と主張した。
本稿の意義は、従来型の、白虎観会議や『白虎通義』をいわゆる《儒教の国教化》実現のメルクマールとする後漢経学のイメージを払拭すべきことをうったえ得たことや、当時の経学を今文学と古文学のせめぎあいという対立の構図だけの一色に染め上げることから脱却できたことにもとめられようし、後漢時代の知識人がそれぞれの置かれた立場で、本来のあるべき経学の姿――その姿は個々の知識人にとって異なるが――をもとめていたということ、この点を一貫して論じることができたことである、と筆者は考えている。