本論文は、I・カントが『判断力批判』(一七九〇年)の第一部「直感的判断力の批判」で展開した判断力の批判としての美学をめぐる研究である。第一部でその成立に至るまでの前史における彼の考察の過程を、第二部で『判断力批判』で確立した直感的判断力の批判を究明する。
第一部第一章は、六四年の二つの論考においてカントの考察する名誉欲が、思考において自分以外の立場をとることをひとに促す点に注目し、初期の美学的思考の内に『判断力批判』の思考にも通底するような他者を顧慮する反省が、その可能性のみならず限界に関してもすでに論究されている点を明らかにする。第二章は、人間学講義録(七二-八九年)を主な研究対象とし『判断力批判』以前のカントが、七〇-八〇年代に趣味の「批判」と「規則」、諸認識能力の「調和」そして「判断力」「共通感官」(共有的感官)の概念にどのような考察を与え、その考察がどのようにして直感的判断力の批判としての美学を用意したのかについて諸々の時期に則して逐次検討する。
第二部では、『判断力批判』で展開された判断力の批判としての美学を解明する。二つの章に分け、一つに美しいものの直感的判断(趣味判断)における直感的判断力を(第一章)、また一つに崇高なものの直感的判断における直感的判断力(第二章)をそれぞれ分析する。趣味判断に関してとくに焦点にするのは、直感的判断力の超感性的基体(叡智的なもの)との関係である。反省的判断力の一つである直感的判断力は、自己自律的な立法能力であり、自らに規則を挙示する。その際に、自らの方向を定めるために直感的判断力は、理性から規定を受けることなく、超感性的なものを感性的なものの根底に置くべしとの理性の要求に応じる。こうした分析を通して、異なる判断を下す判断者の争いの内に一致の希望を与えるのが、この超感性的基体であることを明らかにする。次に崇高なものの直感的判断において、構想力を緊張の状態に置く自然に対して崇高と呼ぶことが非本来的でありながら必然性をもつのは、判断者がこの自然を、人間のもつ道徳的素質を顧慮するあらゆる適切な機会の一つとして考慮することによってである点を、直感的判断力による対象の形式の合目的的な使用の仕方を通して解明する。最後に次の点を本論文の結論とする。普遍妥当性の要求をともなう直感的判断を下すことは、判断者が「参与」の状態に身を置くことであり、単に一個人として私的な条件に従うのではなく、普遍的な立場から判断を下すことを意味する。判断力の批判としての美学とは従って、普遍的な参与の感情とともにひとが直感的に判断するという事態の存在する可能性のために考究されたものである。