本論文は,日本における不法行為責任論がいかなる構造を持ち,とりわけ道徳的な要素をどのように扱ってきたかを明らかにし,併せて,法的責任を(再度)道徳化しようとする試みの限界を探ることで,社会における法的責任の意味を探求するものである。
ひとが社会生活において不利益を被ったと感じた時に何が出来るか──その不利益を引き起こした誰かに対して金銭による損害賠償を求めることが出来るというのが,日本の法制度が用意している選択肢であり,最も一般的なのが民法709条による不法行為責任(民事責任)である。法的責任は,法システムの中で法的言説によって独自の意味と論理を与えられつつ実践されているが,同時に,社会からの非-法的な意味付けにも常に晒されている。法的言説には首尾一貫しきれない綻びが含まれていると同時に,背後では,法的な解釈と社会的な意味付けや期待との間で相克が生じてもいる。
本稿が特に今この問題に焦点を当てる理由の一つは以下である。損害に因る責任の法的な規定と日常的・社会的な意味付けとが接する際に争点化するのは,当事者(とりわけ,損害を被った者)の道徳的感情や「心」の問題であり,そこに根差した責任観である。この点は,実は古くから法的言説の内外で議論の的にはなっていた。しかし日本では特に90年代以降,災害や犯罪の被害者,とりわけその感情や「心」に対する社会的関心が高まってきている。これは同時に,社会──最終的には法システム──の側がその問題に対処しなければならないという意識をも表していると見ることができ,法的責任のあり方もまたこれに直面せざるを得ない。例えば近年提起された「定期金賠償」請求は,法的な賠償責任を特異な仕方で道徳的に用いた事例である。そこで本稿は,これらの事例を素材としながら,日本の不法行為責任論が,これまで感情や道徳の問題にどのように対処してきたかを検証し,逆に,法的責任はどこまで“道徳化”することができるかを再考した。
日本の法的言説において不法行為制度は,被告からの金銭支払いによる「損害填補」,それによる「被害者の救済」を第一の目的とする制度として理解されている。過失責任主義である以上,全ての被害者がこの制度で救済されるわけではないが,このギャップは「公平な負担」という理念によって埋められている。総体的に見ると,日本の法的言説では,制度の目的論という次元で明示的に道徳的要素が排除されるものの,帰責根拠論や慰謝料算定といった場面では道徳的な考慮が実際には顔を出している。逆に言うと制度の目的論は,そのような考慮を理論的(形式的)に法的な前提の中に押さえ込むという役割を果たしている。
このような規範的枠組みを巡って問題化されてきた論点には大きく分けて三つあった。一つは損害填補主義に対する不満,もう一つは,逆に,設定された制度目的を徹底する視点から生じる批判,即ち,損害填補の非効率や機能不全という問題である。これら二つの批判は従来から提起されてきたものだが,近年とみに強く提起されつつある三つ目の批判は,前二者と本質的に異なっている。それは損害に因る責任を「損害の公平な負担」へと還元する法的前提そのものへの不満であり,それはむしろ,これまで法的言説の中から汲み出されてきた道徳的意味付けを再び法的責任の中に注入しようとするものである。法的責任を道徳化しようとする主張は,法的言説において争点となってきた帰責原理や,責任を課すことの効果・機能に関してだけではなく,むしろ責任の果たし方や果たすことの意味付けについて行われている。
しかし法的責任に与えられている強制性を,道徳化に対する一つの限界として,また社会における法的責任の機能を特徴づけるものとして再確認しておく必要がある。日常的な意味での(道徳的)責任と,法的な(不法行為=損害賠償)責任とは同じような構造を持ちながら,根本的には全く異なる力学の下に置かれている。被害者の感情や「心」に生じたダメージを社会的な問題として取り扱おうとする動きの中で,法システムは法的責任の決定と強制を行わなくてはならない。道徳的・感情的な要素を払拭し,そこから自律しようとしてきた法システムは,そのことによって独自の機能を果たしてきた。例えば帰責要件から「非難可能性としての過失」のような道徳的基準を取り除くことによって,賠償範囲が広がり,より多くの被害者を(金銭的に)救済することが可能になったわけである。逆に,法的責任をあらためて道徳化しようとする諸議論──共同体的正義論,応答責任論,修復的司法論──は,まさに法的責任を法的たらしめる強制性という問題によって限界づけられざるを得ない。責任の道徳的意味を真剣に捉えようとすればするほど,それを法的責任として追及することが困難になるからである。