本論文の目的は、部派仏教の三明説を編集史的に明らかにすることにある。インド仏教史の中でも初期仏教と大乗仏教をつなぐ要の位置にある部派仏教において、解脱に到る過程を示す三明説は最も重要な聖典伝承の一つだった。様々な部派の多くの文献に三明説が説かれており、部派仏教が三明説を初期仏教から継承し、その内容を独自に展開させたことがうかがわれる。
ところが、三明説に関する先行研究の多くは、「初期仏教資料」「部派仏伝」「部派の修行論」に限定して研究するにとどまっており、初期仏教における三明説が部派の仏伝に組み込まれた過程や背景、部派の修行論の核となって修行体系が構築されていく思想的展開について、充分に論じられてこなかった。
そこで、本論文では、「伝承の系譜と変容」および「伝承の担い手」を分析するという研究方法によって、部派仏教の三明説を批判的に検討した。その結果、これまで知られなかった次のような歴史が明らかになった。
三明説(および三明説から発展した六通説)は、初期仏教から部派仏教へ展開する過程で、「縁起」型と「四諦」型に分裂した。初期仏教時代の三明説は、菩薩も比丘も第三明(漏尽知)で「四諦」を認識して仏陀・阿羅漢となることを説く伝承であり、もともとは「四諦」型しか存在しなかった。ところが、部派仏教時代になると、菩薩が「縁起」を認識して仏陀となる様式と、比丘・瑜伽行者が「四諦」を認識して阿羅漢となる様式に、三明説が分かれたのである。
この「縁起の認識=仏陀」「四諦の認識=阿羅漢」という定式は、すでにアシュヴァゴーシャに確認できるから、遅くとも二世紀には、少なくとも北インドに存在していたことは確実である。この定式は複数の部派に広まり、説一切有部、大衆部、おそらく法蔵部にも伝播した。さらに、遅くとも五世紀前半にはスリランカに達して上座部大寺派に受容され、ブッダゴーサの作品に確認することができる。
仏陀の第三明を「四諦」の認識から「縁起」の認識へ転換したのは、仏塔の近辺で「仏伝」を唱導する者たちだったと考えられる。「縁起」型の三明説は仏伝に関する伝承に集中しており、また、その内容が仏塔のレリーフや縁起頌と合致するからである。仏伝の担い手たちは、仏塔信仰が遺骨崇拝から「縁起頌」崇拝へ転換したのに連動して、仏陀の第三明を縁起へ結びつけて、仏陀と「縁起頌」を重ね合わせ、教説(縁起)の超自然的な力によって仏塔信仰に新たな息吹を吹き込んだ。
一方、四諦型の三明説を継承したのは、修行論を形成した比丘たちだった。彼らは単に「比丘」と呼ばれる者、または、アビダルマの伝統を担う者や「ヨーギン」と呼ばれる者である。いずれにしても僧団内部で禅定を積極的に行う比丘だったと考えてよいだろう。彼らは仏陀の言葉をテクニカルに用いて修行マニュアルを作成し、「四諦」を核に修行体系を構築した。
仏伝の三明説では、認識対象の変化にともなって、四禅への言及が減り、魔物の軍勢を斥ける物語が前段に置かれ、「漏尽知」から「一切知」や「無上正等覚」が仏陀の智慧の名称として用いられるようになった。「禅定を経て四諦を認識し、漏尽知に到る阿羅漢」としての仏陀のイメージは大きく後退し、代わって「魔物を斥け、輪廻世界を見渡す一切知者」としての仏陀のイメージが前面に出てくるようになった。
一方、比丘が阿羅漢になる修行論では、到達すべき境地は「漏尽知」または「漏尽」である。時代の変化と共に、修習の内容は大きく変化したにも関わらず、「漏尽(知)の到達=阿羅漢」という図式は遂に変わることはなかった。比丘が修行して目指す理想は、一貫して「禅定を経て四諦を観察し、煩悩を滅した阿羅漢」だったのである。
ここで留意すべきは、仏伝の「縁起」型と修行論の「四諦」型との二系統はけっして対立していなかったことである。説一切有部のアシュヴァゴーシャ(BuddhacaritaとSaundarananda)も、上座部大寺派のブッダゴーサ(四ニカーヤ註とVisuddhimagga)も、仏伝と修行論という両方の系統を継承している。両系統は相互排他的な関係ではなく、同一部派の同一人物の中に並存しうる関係にあったのである。
以上の結論は、パーリ文献の資料論的特質からも補強することができる。ブッダゴーサが所属した上座部大寺派は本拠地をインド本土ではなくスリランカに置いた部派であり、現存するパーリ文献はこの部派の伝承であるが、本論文は、パーリ聖典の編纂順序が「(1)四ニカーヤ(経蔵)、経分別・?度部(律蔵)⇒(2)七論(アビダンマ蔵)、パリヴァーラ(律蔵)⇒(3)クッダカニカーヤの十五書(経蔵)」であること、(2)(3)で編纂されたパーリ文献にも北伝阿含と共通の伝承が含まれていることを明らかにした。上座部大寺派は時代を下ってもスリランカに自閉せず、インド本土から伝承を受容していた以上、ブッダゴーサが「縁起」型三明と「四諦」型三明を継承したのは、大寺派が当時のインド仏教と三明説を共有していた結果であることが分かる。
ところが、三明説に関する先行研究の多くは、「初期仏教資料」「部派仏伝」「部派の修行論」に限定して研究するにとどまっており、初期仏教における三明説が部派の仏伝に組み込まれた過程や背景、部派の修行論の核となって修行体系が構築されていく思想的展開について、充分に論じられてこなかった。
そこで、本論文では、「伝承の系譜と変容」および「伝承の担い手」を分析するという研究方法によって、部派仏教の三明説を批判的に検討した。その結果、これまで知られなかった次のような歴史が明らかになった。
三明説(および三明説から発展した六通説)は、初期仏教から部派仏教へ展開する過程で、「縁起」型と「四諦」型に分裂した。初期仏教時代の三明説は、菩薩も比丘も第三明(漏尽知)で「四諦」を認識して仏陀・阿羅漢となることを説く伝承であり、もともとは「四諦」型しか存在しなかった。ところが、部派仏教時代になると、菩薩が「縁起」を認識して仏陀となる様式と、比丘・瑜伽行者が「四諦」を認識して阿羅漢となる様式に、三明説が分かれたのである。
この「縁起の認識=仏陀」「四諦の認識=阿羅漢」という定式は、すでにアシュヴァゴーシャに確認できるから、遅くとも二世紀には、少なくとも北インドに存在していたことは確実である。この定式は複数の部派に広まり、説一切有部、大衆部、おそらく法蔵部にも伝播した。さらに、遅くとも五世紀前半にはスリランカに達して上座部大寺派に受容され、ブッダゴーサの作品に確認することができる。
仏陀の第三明を「四諦」の認識から「縁起」の認識へ転換したのは、仏塔の近辺で「仏伝」を唱導する者たちだったと考えられる。「縁起」型の三明説は仏伝に関する伝承に集中しており、また、その内容が仏塔のレリーフや縁起頌と合致するからである。仏伝の担い手たちは、仏塔信仰が遺骨崇拝から「縁起頌」崇拝へ転換したのに連動して、仏陀の第三明を縁起へ結びつけて、仏陀と「縁起頌」を重ね合わせ、教説(縁起)の超自然的な力によって仏塔信仰に新たな息吹を吹き込んだ。
一方、四諦型の三明説を継承したのは、修行論を形成した比丘たちだった。彼らは単に「比丘」と呼ばれる者、または、アビダルマの伝統を担う者や「ヨーギン」と呼ばれる者である。いずれにしても僧団内部で禅定を積極的に行う比丘だったと考えてよいだろう。彼らは仏陀の言葉をテクニカルに用いて修行マニュアルを作成し、「四諦」を核に修行体系を構築した。
仏伝の三明説では、認識対象の変化にともなって、四禅への言及が減り、魔物の軍勢を斥ける物語が前段に置かれ、「漏尽知」から「一切知」や「無上正等覚」が仏陀の智慧の名称として用いられるようになった。「禅定を経て四諦を認識し、漏尽知に到る阿羅漢」としての仏陀のイメージは大きく後退し、代わって「魔物を斥け、輪廻世界を見渡す一切知者」としての仏陀のイメージが前面に出てくるようになった。
一方、比丘が阿羅漢になる修行論では、到達すべき境地は「漏尽知」または「漏尽」である。時代の変化と共に、修習の内容は大きく変化したにも関わらず、「漏尽(知)の到達=阿羅漢」という図式は遂に変わることはなかった。比丘が修行して目指す理想は、一貫して「禅定を経て四諦を観察し、煩悩を滅した阿羅漢」だったのである。
ここで留意すべきは、仏伝の「縁起」型と修行論の「四諦」型との二系統はけっして対立していなかったことである。説一切有部のアシュヴァゴーシャ(BuddhacaritaとSaundarananda)も、上座部大寺派のブッダゴーサ(四ニカーヤ註とVisuddhimagga)も、仏伝と修行論という両方の系統を継承している。両系統は相互排他的な関係ではなく、同一部派の同一人物の中に並存しうる関係にあったのである。
以上の結論は、パーリ文献の資料論的特質からも補強することができる。ブッダゴーサが所属した上座部大寺派は本拠地をインド本土ではなくスリランカに置いた部派であり、現存するパーリ文献はこの部派の伝承であるが、本論文は、パーリ聖典の編纂順序が「(1)四ニカーヤ(経蔵)、経分別・?度部(律蔵)⇒(2)七論(アビダンマ蔵)、パリヴァーラ(律蔵)⇒(3)クッダカニカーヤの十五書(経蔵)」であること、(2)(3)で編纂されたパーリ文献にも北伝阿含と共通の伝承が含まれていることを明らかにした。上座部大寺派は時代を下ってもスリランカに自閉せず、インド本土から伝承を受容していた以上、ブッダゴーサが「縁起」型三明と「四諦」型三明を継承したのは、大寺派が当時のインド仏教と三明説を共有していた結果であることが分かる。