本論文は明治・大正期において地方行政単位の一つであり、また自治団体の一つでもあった郡を分析の素材として、近代日本の「地方編制」のメカニズムについて論じるものである。地方編制の中心的役割を担う内務省のみならず、政府内の他省、地方長官、政党(議会)にもスポットを当て、地方編制を総合的に検討していく。
第一章は三新法期の郡政運営が直面した三つの問題点~第一に郡長俸給の支弁方法と郡長任用のあり方をめぐる問題、第二に郡長職務=郡役所事務増加問題、第三に法文上郡に代議機関を欠いたことに関する問題~の解決が、明治19年地方官官制・明治23年郡制に帰結していく過程を論じた。
第二章は郡自治不要論がくすぶる中で制定された郡制を、名実共に自治団体とするためにその改正を主張した政党が、明治30年代以降郡制廃止論へ傾いていった背景を論じた。
政党の郡制改正論と政府・内務省の見解との一番の相違点は、郡長公選に関してであったが、自由党は郡長公選条項を郡制改正法案から除外し、その代わりに郡長特別任用制の範囲の拡大を目指し、郡長公選論から離脱したままの郡制改正を正当化することに成功した。
ところが郡制改正の実現は、郡制をめぐる議論を郡長論に集中させる結果となった。郡長=独立公平→官選を内務省が一貫して主張し、憲政党中央レヴェルでも郡長に任用されることを期待していた「院外不平連」の比重が低下したため、郡長公選はおろか郡長特別任用制の範囲拡大さえも結局実現しなかった。一方で憲政党→政友会は行政整理を綱領に掲げ、憲政本党などと共に郡役所機構に対する批判を強めていく。それに伴い郡制不要・町村自治擁護・拡大の姿勢を鮮明に打ち出していくことになったのである。
第三章は政友会内閣による郡制廃止が頓挫する中で、郡制廃止論への対抗策として内務省が打ち出した郡長改良策と、ほぼ同時進行した地方改良運動における郡の位置付けを検討することで、原政友会内閣が郡制廃止法案を成立させるまでの、郡制「安定期」を描こうとしたものである。
郡長改良策としては有資格者の郡長への任用、特別任用郡長の人材の厳選や増俸、郡長の再教育の場となっていた地方改良講習会を検討した。そしてこのような郡長改良の試行錯誤と郡への関心の強化が、結果として郡制を延命させ「安定期」をもたらしたのではないか、とした。
第四章は郡制廃止法律案の議会への提出が、法制局の反対上申を覆す形で強行されたという立法資料に着目し、内務省が郡制廃止を断行した理由を考察した。その手がかりとして道路法により全国的に普及した郡道を取り上げた。
道路法施行後、郡道はその前身である郡費支弁里道と比較して大幅にその距離を伸ばし、全国共通の郡事業となった。このことは郡事業の不振を理由に郡制廃止を主張する、内務省の大義名分を失わせるに足るものであった。だからこそ、政友会の反対勢力や法制局を押し切って議会へ法案を提出し、貴族院も大車輪で通過させたのである。
一方で必ずしも全国すべての郡で郡道を必要としていなかったのも事実であり、全国画一的に郡制という自治の枠組みによって地方を統治していくことが、もはや困難な状況になっていたのである。
第五章は郡制廃止のメリットとして内務省があげていた郡役所廃合が、それからわずか三年の後に郡役所廃止が決定される過程を論じた。
第一次大戦後の不況のために行政整理は不可避であり、その意味で郡役所廃合は地方行政上の課題であったが、憲政・政友・革新の護憲三派は、寄り合い所帯ゆえに、郡役所廃合の規模や郡役所の位置等をめぐって利害調整が困難であるとし、郡役所廃合方針であった政府・内務省に対して、強硬に全廃を主張したのである。
まさに利害関係の調整が困難な護憲三派であったからこそ、内務省が守り抜こうとした中間行政機関を廃止することができたといえよう。