本稿の目的は、ディスアビリティを解消可能なものとして概念化する理論構築が必要であるという立場から、ディスアビリティの概念化において、他の「問題」との弁別の基準を持ち、内部の質的な多様性を適切に表現することができ、論理的な水準で解消可能性に開かれ、その解消要求が素朴な社会規範との関連で妥当性を持ち得るような、理論を探求することである。従来のディスアビリティ理論には、ディスアビリティに関する、(1)二元論的理解、(2)非文脈的理解、(3)制度的位相に限定された理解、という前提があるのだが、本稿ではこうした諸前提の組み換えが行われる。
(1)については、ディスアビリティを構成する「不利益」は、「社会的価値」と「個体的条件」との関連に基定され、「利用可能な社会資源」や「個人的努力」によって変容させられるような、複数の要素間の関係性として現れるある種の状態に対する評価として把握する。この認識によれば、「不利益」は個人に照準して観察される「本来の能力」からの偏差ではない。また、「不利益」の原因を一義的に個人の外部としての社会に帰属させることもできない。この読み替えの意義は、主に論理的水準における認識論上の転換だが、「個人的努力」を抑圧し、無効化する「社会的価値」や「利用可能な社会資源」の機能によって、「不利益」が生成されていく局面を焦点化する枠組みも提供することになる。
(2)については、「不利益」の個別ケースを切り取って不当性を確認しようとするアプローチが障害者の経験する「不利益」を十分に解消するための理論的枠組みたり得ていないこと、また生活状態全体への対応という契機を欠いていることを指摘した上で、特定の関係性への評価として現れる「不利益」が特殊な形で個人に集中的に経験される現象、としてディスアビリティを捉える視点を提示する。「不利益の集中」は、生活の多くの場面で、また人生の多くの期間を通じて、「社会的に価値のある活動」が「できない」という経験であり、その状況の改善には、社会的に了解可能な妥当性があると思われる。また、「不利益の集中」には、「不利益」の「複合化」および「複層化」という2つのパターンがあり、それぞれに応じて分析がなされる。
(3)に関しては、社会的活動そのものは制度的な位相においてなされる場合でも、それに際して自己の内的過程やミクロな相互行為過程が重要な意味を持つことがあるという観点から、非制度的位相への着目の必要性を主張する。特定の場面における「不利益」に対して「重要な他者」や自己自身によって否定的な価値付けがなされ、それが「全体的ラベル」やスティグマとして機能することによって、障害者は積極的な社会参加から遠ざかる生き方を選択する傾向がある。また、相互行為場面における否定的な眼差しや言葉によるサンクションは、障害者の自己イメージを損傷するものであり、それへの「合理的な」対処として当該の相互行為場面からの撤退が選択されることがある。他方、内的過程における「自己信頼」の獲得や社会的場面におけるインペアメントの脱スティグマ化、そしてそれらを支える他者との関係性や相互行為において、局所的に「社会的価値」が再編されることによって、ディスアビリティの増幅を反転させ、その解消へと向かう経路もある。
以上の知見から得られたディスアビリティ理論への貢献は以下のとおりである。まず(1)を乗り越えることで、同定の基準を持ち、解消可能性に開かれた議論の前提が準備された。すなわち、(1)において常に「不利益の更新」という事態を帰結してしまうことを踏まえ、障害者の経験する「不利益」を解消可能なものとして同定するために、諸要素間の関係性として生じる状態に対するある種の評価として「不利益」を捉える視角が提示されたのだ。その上で、(2)を乗り越えることによって、解消可能性・妥当性のあるディスアビリティの同定に向けての一定の回答が与えられる。個々の「不利益」そのものは十全に解消されるものではないが、「不利益の集中」という事態は解消可能なものとして同定することができ、その解消の主張も社会的に共有されている規範と連接し得るだろうと考えられるのだ。また、(3)を乗り越えることで、多様性を適切に表現し、解消の新たな地平を開くディスアビリティ理論の示唆も与えられる。ディスアビリティ現象は、個々の社会的場面に応じて個別的・逐次的な多様性を有しており、その点は非制度的位相への着目によって初めて焦点化される。また、制度的位相のみにおいては解消困難な「不利益」の一部が、非制度的位相の取り組みを通じて局所的に緩和・解消され得ることも確認されたのである。
(1)については、ディスアビリティを構成する「不利益」は、「社会的価値」と「個体的条件」との関連に基定され、「利用可能な社会資源」や「個人的努力」によって変容させられるような、複数の要素間の関係性として現れるある種の状態に対する評価として把握する。この認識によれば、「不利益」は個人に照準して観察される「本来の能力」からの偏差ではない。また、「不利益」の原因を一義的に個人の外部としての社会に帰属させることもできない。この読み替えの意義は、主に論理的水準における認識論上の転換だが、「個人的努力」を抑圧し、無効化する「社会的価値」や「利用可能な社会資源」の機能によって、「不利益」が生成されていく局面を焦点化する枠組みも提供することになる。
(2)については、「不利益」の個別ケースを切り取って不当性を確認しようとするアプローチが障害者の経験する「不利益」を十分に解消するための理論的枠組みたり得ていないこと、また生活状態全体への対応という契機を欠いていることを指摘した上で、特定の関係性への評価として現れる「不利益」が特殊な形で個人に集中的に経験される現象、としてディスアビリティを捉える視点を提示する。「不利益の集中」は、生活の多くの場面で、また人生の多くの期間を通じて、「社会的に価値のある活動」が「できない」という経験であり、その状況の改善には、社会的に了解可能な妥当性があると思われる。また、「不利益の集中」には、「不利益」の「複合化」および「複層化」という2つのパターンがあり、それぞれに応じて分析がなされる。
(3)に関しては、社会的活動そのものは制度的な位相においてなされる場合でも、それに際して自己の内的過程やミクロな相互行為過程が重要な意味を持つことがあるという観点から、非制度的位相への着目の必要性を主張する。特定の場面における「不利益」に対して「重要な他者」や自己自身によって否定的な価値付けがなされ、それが「全体的ラベル」やスティグマとして機能することによって、障害者は積極的な社会参加から遠ざかる生き方を選択する傾向がある。また、相互行為場面における否定的な眼差しや言葉によるサンクションは、障害者の自己イメージを損傷するものであり、それへの「合理的な」対処として当該の相互行為場面からの撤退が選択されることがある。他方、内的過程における「自己信頼」の獲得や社会的場面におけるインペアメントの脱スティグマ化、そしてそれらを支える他者との関係性や相互行為において、局所的に「社会的価値」が再編されることによって、ディスアビリティの増幅を反転させ、その解消へと向かう経路もある。
以上の知見から得られたディスアビリティ理論への貢献は以下のとおりである。まず(1)を乗り越えることで、同定の基準を持ち、解消可能性に開かれた議論の前提が準備された。すなわち、(1)において常に「不利益の更新」という事態を帰結してしまうことを踏まえ、障害者の経験する「不利益」を解消可能なものとして同定するために、諸要素間の関係性として生じる状態に対するある種の評価として「不利益」を捉える視角が提示されたのだ。その上で、(2)を乗り越えることによって、解消可能性・妥当性のあるディスアビリティの同定に向けての一定の回答が与えられる。個々の「不利益」そのものは十全に解消されるものではないが、「不利益の集中」という事態は解消可能なものとして同定することができ、その解消の主張も社会的に共有されている規範と連接し得るだろうと考えられるのだ。また、(3)を乗り越えることで、多様性を適切に表現し、解消の新たな地平を開くディスアビリティ理論の示唆も与えられる。ディスアビリティ現象は、個々の社会的場面に応じて個別的・逐次的な多様性を有しており、その点は非制度的位相への着目によって初めて焦点化される。また、制度的位相のみにおいては解消困難な「不利益」の一部が、非制度的位相の取り組みを通じて局所的に緩和・解消され得ることも確認されたのである。