本論文で扱うのは,アンドレイ・ベールイの『モスクワ』である。本論は,序論,第1部「『モスクワ』の世界――都市のイメージ」,第2部「『モスクワ』の人間――カロープキンの神秘劇」,結論という2部構成である。大きな枠組みとしては,第1部で『モスクワ』の世界像を,第2部で『モスクワ』の人間像を扱う。
第1部では,『モスクワ』における世界,都市のイメージを考察する。初期詩集以来,ベールイの作品を支える代表的な創作技法の一つは,世界観,思想,信条,感情などの見えないものを,登場人物の部屋,持物,風景描写などの目に見えるもので表現する手法である。こうした手法は多くの作家に共通するが,ベールイ自身も詩集『灰』の序文で述べるように,ベールイにとって,居酒屋,教会,都市などの場所は「現実の象徴」であり,場(トポス)は世界観,思想を表現するための重要な要素である。第1部で明らかにするのは,『モスクワ』におけるモスクワは,滅び行く都市,人々を監視する都市であり,仮面を被り,宇宙との接点を消失した都市であることである。『モスクワ』において,これらの都市のイメージの多くは,同時に登場人物達の特性でもある。それは,世界と人間の照応を重視するベールイの思想に基づいていると考えられる。また,『モスクワ』のモスクワはアナクロニズム的で,革命前のロシアであると同時にソ連的な時空間の要素も持ち合わせており,モスクワの終末性,監視都市というイメージは,ベールイのソ連観を表したものとして考えられる。従来の研究では,ベールイとソ連という国家の関係が『モスクワ』にどのように反映されているかという視点が欠如していたが,本論では,『モスクワ』には,ソ連政権への歩み寄りとソ連に対する皮肉な視点という矛盾する態度が複雑に絡み合いながら表れていることを明示する。
第2部では,小説の軸となるのは,イワン・カロープキンの精神的再生であるという仮定のもとに,カロープキンの精神的変容と再生を,主に2つの観点から考察する。第一の視点は,眼,「見ること/見られること」という主題である。『モスクワ』中を埋め尽くすような夥しい目の描写が,実はカロープキンの精神的発展と拘わる重要な要素であることを論じる。カロープキンの精神的新生が,巨大な目になりたいという願望の消失の結果として生じたという仮定を立て,検証する。第二の視点は,『モスクワ』における聖書のコンテクストである。カロープキンの受難と再生は,キリストの十字架上の死と復活と密接に関わっている。第二部では,カロープキンの描写と聖書におけるキリスト像を比較し,両者の「復活」を比較する。ベールイの作品においては,狂気が,しばしばキリスト,預言者というテーマと結びつき,超越的世界へ参入する一つの方法として描かれていることにも注目し,カロープキンの狂気と精神的再生の関係を考察する。
小説の最終部において,カロープキンは,「新しいキリスト」として誰をも最終的に救済することができず,周囲の世界は滅亡に瀕したままである。カロープキンの神秘劇は,まだ途上であるか,あるいは壮大な失敗として描かれている。『モスクワ』で救済やカタルシスが示されないのは,『モスクワ』が未完の作品だからでもあるが,ベールイが否定の詩学を貫いた作家だからでもある。否定の詩学は,ベールイの創作上の原理であり,初期作品から『モスクワ』に至るまで,ベールイは作品において(一度は自分が熱狂的に受け入れた)様々な哲学,世界観,宗教を意識的に否定することで,それに代わる新しい世界観を探求しようとしてきた。たとえば『銀の鳩』では,村の教会におけるミサの場面や,聖なるロシアの野の光景が様々な手法で冒涜的に描写され,キリスト教や聖なるロシアのイメージが否定されていた。『ペテルブルク』で否定の対象となったのは,アルゴナウタイ神話,西洋哲学,都市文明,永遠の女性像などである。それと同様に,『モスクワ』においても,古いキリスト教,学問,文明,シュタイナーの教義を否定し,革命,新しいキリスト像,ソ連にも希望を託そうとしなかった。むろん,作者自身の思想,世界観の変遷を作品に読み込むことには問題もある。作者と語り手は当然イコールではなく,一度書かれ始めた作品は独自の生を持っているからである。しかし,ベールイが,作品を,自分自身の思索を深め,思想的な諸問題を深く考察するための手段として位置づけていることも無視することはできない。「東か西か」という命題を設定して執筆した『ペテルブルク』でロシアの都市の運命を否定的に描いた後に,ヨーロッパへ旅立ち,シュタイナーの教団に身を投じたように,ベールイの作品と生涯はしばしば重なり合い,作品は芸術作品であるのみでなく自己探求的な場としての意味を持っている。『モスクワ』も,ベールイのこのような否定の詩学の系譜に連なる作品である。『モスクワ』において興味深いのは,ベールイのソ連批判が隠されていることである。ソ連を称揚する作品と見せかけて,ソ連への批判,懐疑を何重にも塗り込めた『モスクワ』は,ベールイの「否定の詩学」の中でも複雑な仕掛けを持った作品である。