荊渓湛然(711-782)は、中国唐代の社会を根底から揺り動かした安史の乱前後の激動の時代を生き、特に大暦年間(766-779)に江南地域で活躍した仏教者である。彼は、天台大師智顗(538-597)の教学を継承し、伝統的な天台教学史では九代目の祖師、特に「中興の祖」と仰がれてきている。一般に、彼は、隋代の智顗に発する天台仏教を復興し、天台教学の体系を実質的に確立させて、「天台の教義を一個の宗派にまで進めた」ことをもって、中国仏教思想史上、極めて重要な地位を与えられているのである。その一方で、徳川時代の華厳学者普寂徳門の湛然批判に見られるように、智顗によって大成された雄大な教学と実践の体系を宗派的に限定してしまった人物として、否定的な評価を下されることもあるのである。
思うに、湛然の教学や思想は、唐代における天台仏教復興運動の一環として現われたものである。もし、彼の思想や行動の中に宗派的或いは時代的な限界が認められたとしても、それを単なる思想史の文脈の中だけで捉えるのではなく、同時に、天台仏教復興運動という大きな現象の中でそれが有したであろう意味を理解しなければならないと考える。そして、実際に、このような観点から、湛然の生涯や業績、更には湛然において表面化した天台教学の思想的変容を見るならば、湛然は、天台仏教復興運動の原点であり、またその総体でもあった、と認識されるであろう。それは、彼が生涯で最初に撰述に取り掛かり、そして十年もの年月をかけて完成させた著述である『止観輔行伝弘決』(T46、No.1912)についても言えるのである。
現行の十巻本『止観輔行伝弘決』は、智顗の説く『摩訶止観』(T46、No.1911)に対する現存最古の注釈書である。「仏の教えを以って止観の妙行を輔け、一実止観の妙行によって一代の教旨を伝弘する」ことを根本的な趣旨とする『止観輔行伝弘決』は、『摩訶止観』の成立からおよそ二世紀近く経って、初めて現れた注釈書であり、その撰述を通して、湛然は天台観門の奥義の闡明に力を尽くしたのである。しかし、『止観輔行伝弘決』に関しては、それが『摩訶止観』の注釈書という、いわば二次的な性格を有するせいでもあろうか、日中の天台系の学僧による注釈書を除けば、まとまった研究成果はまだないのである。
そこで、本論文は、荊渓湛然の最重要著作である『止観輔行伝弘決』を研究課題とするが、特にこの著作の成立過程を当時の歴史状況の中において捉え直すことによって、湛然にとっての同書の撰述意義のみならず、彼が主導した唐代の天台仏教復興運動の展開の中で同書が果たした役割を明らかにしようとするものである。