後漢末から魏晋時代にかけては、経学史上、大きな変化が見られる。漢代における正統的な解釈学であった今文学が衰亡し、それに代わって、主に古文学を基盤としながらも、それにとらわれない新しい注釈が著されている。そして、注釈のみならず、偽古文『尚書』という新出の経書まで登場している。このように、この時期には、経学史上、経書や注釈において大きな転換が起こっている。本稿においては、このような経書や注釈の転換が、どのような社会的要請に応じたものであったかという点について、魏晋時代の礼学の議論の検討を通して、明らかにしようとしたものである。
本稿においては、後漢・魏晋・南北朝時代の経学全体の流れから、魏晋時代の礼学について、以下の観点から考察を行った。
第一の点は、後漢から魏晋時代にかけての問題である。それは、後漢における正統的な学官は今文の博士であったが、その今文学が衰亡するに伴い、古文学の諸説が、どのように影響力を持つようになったかという点である。
第二の点は、魏晋から南北朝時代にかけての問題である。それは、王粛の学は学官に立てられたにもかかわらず、南北朝時代以後の義疏学において採用されなかったが、その衰退した理由はどのように考えるべきであるかという点である。
本稿でにおいては、以上の二点から、魏晋時代の礼学について考察を行った。
まず、第一章においては、鄭玄説の「新」の側面に着眼し、今文学から古文学へという流れの中において、鄭玄の説が、後漢末以降どのように影響力を持つようになるかという点を考察した。その結果、魏の明帝期において、国家行事における影響力を強めていることを明らかにした。
続いて、第二章においては、魏の明帝期における礼制改革と王粛説との関係を考察した。魏の明帝期においては、礼制の整備・改革が進められ、それに伴い、多くの礼制に関する議論が行われている。本稿では、郊祀・正朔改定・社稷・六宗・宗廟・喪服の事例を挙げ、明帝期の礼制の整備・改革に伴う具体的な議論と、王粛説との関係について、後漢以来の制度の変遷の中で、考察を行った。その結果、明帝期の礼制改革における具体的な議論が、王粛の学説の形成に大きく関わっていることが明らかになった。即ち、魏においては、経書解釈として、後漢末の鄭玄の説が次第に影響力を強めつつあったが、鄭玄の解釈は、経書の文献学的な整合性を追究するものであったため、後漢以来の制度や通念には必ずしも適合しない点があった。そのため、鄭玄説に基づく礼制改革の主張に対して、従来の制度や通念を保守する立場から、伝統的な古文学説などを用いて反論したのが王粛であると位置づけられる。
第三章においては、王粛以外の魏晋時代の新解釈について考察した。ここでは、まず、喪服礼における追服に関する新解釈と、宗法に関する新解釈を取り上げた。追服に関する新解釈を見てみると、それは、経書が社会的な規範としての性格を強めるに伴い、鄭玄説の持っていた施行上の難点を修正しようとするものであったが、その際、説明のできない経文中の文字を衍字とする説もあった。そこには、現実的な解釈に対する強い社会的要請が見出され、後の義疏学との違いが認められる。
また、経書中の宗法に由来する喪服礼の規定に関しては、晋において議論が行われ、その中で、嫡孫承祖による三年の喪を否定し、長子のための三年の喪を限定的に解釈する新解釈が生じている。これは、当時、民間においてはそれらの規定が一般には普及していなかったため、現実社会の実態に合わせて経書解釈を行い、実態に合わせて経書を解釈しようとしたものと考えられる。しかし、後の『大唐開元礼』においては、それらの規定はおおよそ鄭玄説に基づいて記載されている。これは、経書の規定が次第に普及し、制度や習慣に取り入れられたため、晋における新解釈の意義がなくなったことを示している。
また、魏晋時代においては、今本とは異なる経注の文言を基に議論が行われている。しかし、義疏学においては、それらの箇所は、議論の生じない形へと変更され、魏晋時代の議論自体についても触れられていない。これは、当時、経注の文言自体が整合的な形に整理されていったことを示している。
このように、魏晋南北朝時代においては、鄭玄の体系的な礼の解釈が、王粛説やその他の魏晋時代の新解釈などの現実的な立場からの反論を一時的に惹起したものの、全体としては、鄭玄の解釈が次第に受け入れられる傾向にあったことがわかる。