本稿は、近世社会における医療環境の特質を実証的に検討したものである。医療を提供する主体、享受する対象の存在形態や、当該期の社会構造との関連性を踏まえ、それらを前提として、複合的に形成される医療の様態に着目した点は、本稿オリジナルの視角である。
第一部では、地域社会レベルに残された記録・日記史料を手がかりに、病とその対応として発現する医療の具体像を分析した。
この時期に頻発した流行病への対応は、社会の安定を維持する意味からも、公儀の主体的に担うべき課題と認識された。筆者は、このような契機で発現される医療を「原初的」な形態、と指摘した。時代を通じては、都市社会を核に民衆一般が医に関する多様な情報を獲得し、病への対策が講じられる。だが、これらがすべて科学的な思考へと転化することはなく、信仰・民俗的な要素に依存する心性も残された(第一章)。
第二章では、彦根藩領郷村の惣庄屋による日記史料をとりあげた。同地での医療環境の特質を抽出するにあたり、支配関係や生活組織、消費生活にかかる地理的交流圏や、文化・宗教的な背景の分析を所論の前提とした。
近世中後期には、医療を主体的に担う存在が増え、彼らの身分と存在形態、活動の内容について、公儀による掌握の必要性が認識され始めた。第二部では藩レベルを単位とする医療環境を分析した。
第三章では、前章に続き、彦根藩の事例を検討した。これまでほとんど未紹介であった「河村文庫」(滋賀医科大学附属図書館蔵)の史料群を使用し、藩がとりくんだ藩医の組織化と、在村医を含む医療統制の手法を明らかにした。
第四章では、近世後期から幕末の福井藩を事例に、藩レベルにおける医療の管理・統制と教育制度の動向を解明した。同藩でも、文化期に医学所が創設され、専門的な教育が実現する。医学所は、安政四年に大きな制度改革を実施したが、このとき採用された進級システムは、藩医たちの知識・技術を向上させることだけではなく、実際に彼らがおこなう医療の、藩による統括を視野に入れていた。
第五章では、福井藩・府中の藩医・皆川氏の日記史料を用いて、地域社会に具現化する医療制度の構造的な特質を明らかにした。府中藩医の公的役務、藩医・町医の組織化傾向や、藩全体を対象とする政策の特徴につき、検討をおこなった。医師の身分や活動それ自体、藩医の間接的な管理・統制によって担保されたが、藩はそのような既存の仕組みを巧みに利用し、城下町に発現する医療の内実を把握したのである。
第六章では、伊勢崎藩医・栗原氏にかかる史料群をもとに、藩医としての役と行動の特質について検討した。藩は、在村医とのあいだに「御出入」と呼ばれる関係を取り結び、地域社会全体の医療環境整備を企図した。
公儀=藩による医療の管理・統制は、仕官する医師たちの身分的な掌握を基礎として実現した。一方、医師たちは、各々が強固な師弟関係を結び、それぞれが医の学統との接点を有している。このような構造も、近世の医療環境を性格規定する主要な要素のひとつであった。第三部では、医の学統が当時、どのような形で全国に普及したか検証した。
第七章では、「京学」という、同時代の特徴的な意識・行動をとりあげた。府中藩医、彦根藩佐野領の医家の事例をもとに、彼らの就学履歴や、修業中の具体的な行動をうかがい、都市と地方との連携の構造や学問の普及・浸透過程を詳しく分析した。近世社会において、医療を実質的に規定したのは、学統の社会的ありようである。
第八章では、近世後期の江戸で独自の展開を遂げた医療環境の実態を分析した。また、江戸を拠点とする学統の存在を踏まえ、医師がどのように都市の医療を各地へ伝播したか、具体的に検討した。
江戸の医療環境を主体的に形成したのは、藩医・町医であるが、加えて、医療に類似した行為・売薬などを生業とする周縁的な医療従事者の活動も無視できない。第九章は、そのような存在に着目し、都市社会における医療環境の全体像を解明した。そのさいとくに、繁華な空間=広場・広小路の状況を検討することが重要となる。
近世社会において、医療を担う者たちは、自らの意思で形成する学統関係を基礎に、それが保障する正統性を担保として、生業を成立させていた。一方、公儀は、医療環境に関する管理・統制の枠組みを形成するが、その内実にも、学統のもつ役割に依拠した部分があった。本稿では、医療という文化事象を理解するさい、当該期における社会構造の特質を踏まえることこそ重要、との認識に立脚して、具体的な事例分析につとめた。