平安時代の文学作品を読んでいると、そこには男の不在や不訪を嘆く女の姿がしばしば描き込まれていることに気づく。本学位論文は、そのような女すなわち「作中世界において男の来訪を空しく待ち続ける女」を〈待つ女〉として捉え、かかる文学的素材が日本古代文学においてどのように誕生し、またその展開に付随してそこにどのような抒情世界が切り拓かれていったのかを考察したものである。
第一篇「〈待つ女〉の誕生」では、主に七世紀後半から八世紀前半の文学を取り上げ、日本古代文学において〈待つ女〉がどのようにして誕生定着したのかを考察した。『万葉集』に載る額田王の「君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く」(4・四四八)の背後に閨怨詩の存在を認めようとする今日の通説的理解に従えば、天智朝には既に〈待つ女〉という文学的素材が誕生していたことになる。しかし、このような理解は、同歌に続いて掲載されている鏡王女の「風をだに恋ふるはともし風をだに来むとし待たば何か嘆かむ」(4・四四九)を十分に捉え得ない点、及び天智朝における漢詩文隆盛という事実と閨怨詩享受の問題をやや安易に結び付けている点で、なお再考の余地があると考える。本論ではこの点に関する疑問から始め、両歌を「君」と「風」という相異なる存在をめぐっての機知的な唱和歌と捉える新しい解釈を提起し(第一章)、加えて残存史料から推定される歌垣歌のあり方や相聞歌史・挽歌史の考察などを通して天智朝には閨怨詩を享受するのに十分な土壌が整備されていないことを示すことで(第二章)、通説的理解に異を唱えた。そして、その過程で浮上してきた呪的共感関係の相対化という視点から柿本人麻呂「石見相聞歌」を分析することを通して、持統朝頃に相聞歌史に新たな抒情が獲得された理由の一端を確認し、〈待つ女〉誕生の始発期(第一段階としての「嘆く女」誕生の時期)をこの頃に見定めた(第三章)。続けて、「嘆く女」から「恨む女」へと連続的に展開する恋愛文学史の動向を確かめつつ、〈待つ女〉誕生の完成期(第二段階としての「恨む女」誕生の時期)を、坂上郎女「怨恨歌」の詠まれた天平期に推定した(第四章)。
第二篇「〈待つ女〉の展開」では、主に九世紀後半から十世紀の文学を取り上げ、〈待つ女〉という素材がどのような抒情世界を切り拓いたかを考察した。具体的に取り上げた作品は、『竹取物語』と『蜻蛉日記』である。物語文学の祖とされる『竹取物語』だが、本論ではその中心部分を占める難題求婚譚に注目し、七・八世紀の妻争い伝承からの系譜を辿り直すことで、物語文学としての『竹取物語』の達成を見定めるとともに、そのような展開を促したものとして、男の愛情への否定的な眼差しを醸成してきた八世紀後半から九・十世紀にかけての〈待つ女〉をめぐる抒情世界の進展があったことを明らかにした(第一章)。『蜻蛉日記』については、そこに描かれる道綱母の関心の所在が兼家の心から我が身・我が心へと推移していくことを指摘し、その様が「人の心」への否定的な眼差しを育んできた〈待つ女〉という文学的素材がやがて「我が心」へと関心領域を拡大していく十世紀文学史の動向に対応していることを論じた(第二章)。併せて、『蜻蛉日記』中の一首「稲荷山おほくの年ぞ越えにける祈るしるしの杉を頼みて」を取り上げ、道綱母の表現基盤に〈待つ女〉という素材が深く浸透していたことを指摘した(付章)。
第三篇「『源氏物語』と〈待つ女〉」では、平安中期を代表する『源氏物語』を取り上げ、夕顔と光源氏との恋物語・六条御息所の生霊化・蓬生巻の末摘花を論じながら、その背後に『源氏物語』の作品形成の原動力として先に述べた〈待つ女〉の展開が深く関与していることを指摘した。具体的には、貴公子が陋屋に美女を発見するという類型的な話型に従いつつも、男に迎え取られることで女が幸せになるという結末を拒否するところから、源氏と夕顔との非日常的な恋物語は生成されたことを明らかにし、その背後に男の愛情への断念を伴ったある醒めた意識が認められることを指摘した(第一章)。また、六条御息所の生霊は葵の上への嫉妬や怨念の情から生じたものではなく、むしろ物語は断ち切ろうとしても断ち切ることのできない源氏への未練を浮かび上がらせようとしているのだと捉えるところから、そのような六条御息所のあり方を、源氏への思いを封じ込めて生きた藤壺以下多くの女君の陰画をなしていると把握し、そこにこの物語の「我が心」への関与の深さを見出した(第二章)。さらに、従来肯定的に捉えられることの多かった蓬生巻の末摘花だが、肯定か否定かという二者択一的な問題ではなく、むしろ肯定的な美質が否定的な人物によってしか担われ得ないということに意味を見出し、そこに「我が心」への関心の深さが浮かび上がってくることになると論じた(第三章)。