本論は、明恵の伝記・説話・法語を扱った第Ⅰ部と、明恵の和歌を検討した第Ⅱ部、明恵と弟子の関係を論じた第Ⅲ部に分かれている。以下、各部の論旨を略述する。
第Ⅰ部は、明恵の伝記・法語・説話の生成と流布の様相を、『伝記』と『遺訓』の伝本調査に基づいて、明らかにしようとしたものである。
第一章では、『伝記』諸伝本を出来る限り多く調査し、その系統と成立を明らかにした。慶應貞治本や高山寺秀智本が古態を保つことを見出し、『伝記』の本文系統が二大別されることを示した。また『伝記』版本の草稿に関わる写本として仁和寺本・高山寺残缺本の存在を指摘し、版本化の道筋を浮かび上がらせた。初期『伝記』の編者や増補記事が作られた場を検討し、真言系の僧が初期の『伝記』の基礎を作り、真言と禅が兼修された場で増補説話が作られていったと考えた。
第二章では『明恵上人遺訓』の成立を検討し、初めは『伝記』下巻に組み込まれていた語録が、「上人御詞抄」となり、徐々に整えられて、最終的に『遺訓』として版本化される過程を明らかにした。「御詞抄」と『明恵上人遺訓抄出』との関係も分析し、それぞれが『明恵上人遺訓』原本から条文を取り入れた可能性を指摘した。
第三章では、第一・二章の成果をふまえ、『沙石集』所収の明恵説話を検討した。第一節では、『沙石集』『伝記』『遺訓』及びその他資料を比較検討し、「あるべきやうは」の成立と成長過程を明らかにした。第二節では、春日大明神御託宣話の周辺を見渡し、無住の明恵関連説話情報源として、南都の菩提山と西大寺を想定した。第一・二節を通し、『沙石集』の明恵関連説話には、無住の作為的な編集の可能性があることも窺われた。
第Ⅱ部は、明恵の和歌をめぐる諸問題を検討し、その和歌と和歌観を見定めようとしたものである。
第一章では、『伝記』の伝本研究をふまえ、西行や明恵の和歌を論じる際に注目されてきた〈西行歌話〉に後代の増補があることを見出した。この歌話が生まれた背景としては、西行と明恵に思想や資質の類似性があり、この歌話の核心思想が鎌倉後期から南北朝にかけての時代が生み出した和歌観の反映であったと結論した。
第二章では、明恵が和歌を学んだ場を明らかにした。明恵が影響を受けた和歌の享受者層と明恵の師で『和歌色葉』の著者でもある上覚が仁和寺で接点を持つことから、明恵が仁和寺周辺の文化圏のなかで和歌を学んだ可能性を浮かび上がらせた。
第三章では、明恵詠のなかに西行歌の歌句と発想を意識的に受容した歌があることを指摘し、明恵における西行歌の影響を具体的に見出した。
第四章では、従来明恵の作歌法の根本とされてきた「安立」「心ゆく」を再検討し、明恵が自ら編んだ歌集の意味を探り出そうとした。「安立」が言葉に表す意、「心ゆく」及び「遣心」が心を慰める意であることを明らかにし、「遣心和歌集」所収歌の分析によって、その撰集の志向が「遣心」と見出した。
第五章では、明恵晩年の思想と詠歌の関係を実証的に掘り起こした。明恵の講義聞書『解脱門義聴集記』には、菩薩として衆生を導いて解脱させるために詠歌するという発言があり、それを裏付けるごとく、『歌集』には明恵の重んじた思想や経典に関わる歌が存在する。それらを読み解き、菩薩としての詠歌のあり方を浮き彫りにした。
第六章では、明恵詠を広く見渡しながら、詠歌姿勢の変遷を追い、その特質を考察した。第一節では、自筆詠草の改作過程を追うことで、若い頃の明恵が詠歌の改作に逡巡する様と、その苦悩から脱する瞬間を浮かびあがらせた。第二節では、坐禅を契機として詠まれた歌に着目し、坐禅によって澄んだ心が生じ、その上で明恵が詠歌していたことを明らかにした。第三節では、明恵の和歌の変遷と特質をまとめた。1では、明恵の詠歌傾向が、和歌初学の若年期、「遣心」としての和歌を志向して「遣心和歌集」を編んだ壮年期、菩薩としての詠歌姿勢を語った晩年期と、年大きく三つに分けられることを示した。2では、西行の和歌と対照させることによって、明恵の和歌の特質を浮かび上がらせようとした。明恵は修行によって培われた澄んだ心の上で和歌を詠み出すことで、和歌への執着を抱え続けた数寄を脱していた。このような明恵の和歌観は和歌及び思想史上特筆すべきものといえる。
第Ⅲ部では、第Ⅰ・Ⅱ部で論じ残した問題の一部として、明恵と弟子の関係を論じた。
第一章では、『歌集』末尾の五首の配列に着目し、そこから浮かび上がる高信が捉えた明恵像を考察した。高信は、最終的に悟りに至った明恵の姿を『歌集』の末尾で提示して、締め括りとしたのであった。
第二章では、明恵自筆書状や講義録等の聞書を丹念に読み込むことで、尼寺善妙寺の尼僧たちと明恵との関わりを浮き彫りにしようとした。明恵は真摯に尼僧たちを育て導こうとしており、尼僧たちもまたその期待に応えようとしていたのである。