本論では、本歌取をはじめとする表現摂取を中心とした中世和歌の展開を、藤原定家を中心に考察していく。近年著しい文献学的研究の進展や新資料の紹介を踏まえ、当該作品の本文及び摂取源となった本歌や本説の本文も再検討して、より精細な作品分析を行う。
第一編では、彼らが参看した物語本文を想定した上で、中世の歌人達がどのように先行する王朝物語を摂取したかということを中心に論じる。
その第一章では、『千載集』秋上・二五九番歌の分析を中心にして、藤原俊成が開拓したとされる『伊勢物語』百二十三段の摂取を扱う。俊成詠の本歌となった『伊勢物語』と同じ贈答が収められる俊成本『古今和歌集』との本文比較から、俊成が物語の作中人物への共感を導き出した。俊成自身の自詠への言及を分析した上で、物語中の人物への共感の姿勢を示す俊成歌と、物語世界を相対化する他歌人との違いを指摘した。
第二章では、中世歌人と『大和物語』百六十九段の摂取を中心に論じる。ここでも俊成が表現の素材として『大和物語』百六十九段を見出し、後代の歌人達が継承したことが見え、逢恋を詠んだ俊成と悲恋を詠んだ他歌人との物語摂取の相違点も明確となっている。
第三章では、『藤河百首』の表現について、『大和物語』に関する二つの本説を中心に、この百首の注釈書の和歌の解釈の妥当性について検証した。草野隆氏の定家仮託書説や五味文彦氏による新資料の紹介を踏まえ、定家は何年もかけて百首題の集成を行い、それに従って歌を詠んだが、後鳥羽院の勘気に触れた歌と同じ表現がこの百首に見られるため、後代まで長く秘されたとする推測を示した。
第四章では『源氏物語』『狭衣物語』の積極的な摂取が見られ、『建仁元年仙洞五十首』の恋歌について分析を行う。「寄嵐恋」「寄舟恋」の用例を中心に分析し、『六百番歌合』との比較も踏まえ、激しい動きへの志向が表現に見られることを指摘した。
第二編では、源俊頼と藤原定家の万葉摂取を論じた。今日の訓読と異なる『万葉集』の訓を参看して、歌人達がどのような発想を生み出したか考察する。
その第一章では、万葉集の訓読史の研究進展を踏まえ、『恨躬恥運雑歌百首』を中心に、源俊頼の『万葉集』摂取歌について考察する。『類聚古集』を中心とする非仙覚本万葉集の訓読の影響を俊頼がどのように受けたかを分析し、創作者としての立場から歌の表現を選んでいる俊頼の独自性にも言及している。
第二章では、源俊頼が著わした歌論書『俊頼髄脳』所収の万葉歌の本文について考察する。定家本『俊頼髄脳』所引の万葉歌は、定家が、歌に付された注説を検討した上で、校訂しても支障がないと判断した際に、『万葉集』を参看して改められたことを指摘した。
第三章では、定家の代表的な女人仮託歌である『百人一首』自撰歌を中心に次点本万葉歌本文から定家が何を摂取したかに言及した。さらにこの自撰歌と関わりの深い順徳院への思いが、父俊成を抜擢して歌人としての地位を高めた崇徳院に対する意識と重なることを、定家・俊成の判詞などの現存資料を基にして指摘した。
第三編では、現存する定家関係の資料の本文や奥書分析から見出される、和歌の改作や表現の位相差などの問題を考察した。
その第一章では、『宮河歌合』の諸本・古筆切を挙げ、そこから生ずる解釈上の問題について考察した。一番右歌への判詞、及び三十二番に見える西行と定家の意識を扱った。
第二章では冷泉家時雨亭文庫蔵『拾遺愚草』本文と『千五百番歌合』本文との明らかな相違は、家集編纂に際しての改作と結論付けた。また、定家の自詠に対する判詞を分析し、「女の歌」とは、身近な景物へ作中主体の視線を限定する傾向を持つことを指摘した。
第三章では、『内裏名所百首』の「霞浦」題の順徳院詠をはじめ、この百首の古注の本文の形成が和歌史上の頻出表現に改められるという結果になっていることを指摘した。
第四章では『新勅撰集』編纂にあたって、『万葉集』『散木奇歌集』『殷富門院大輔集』を出典とする和歌の改作について考察した。出典となった和歌の表現をより生かすために、定家の歌人としての創作意識から行われたことを一首一首の和歌について詳説した。
附編では、歌人定家の伝記資料として重要な『明月記』六本について調査・分析した。
第一章では、東京大学総合図書館蔵『明月記』二本、第二章では、国立国会図書館蔵『明月記』四本の書誌調査を報告し、その書写や伝来について考察を加えた。
以上の分析により、文献学的成果を踏まえ、新たな表現論を構築できたと考える。