本研究では,両眼立体視による対象内および対象間における奥行き知覚の特性について検討した.両眼立体視は3段階のサブプロセスから構成されていると考えられる.第1の段階は,両眼の輻輳角を調節し,両眼の網膜像を融合させる段階,第2の段階は融合された両眼の網膜情報から両眼視差(以下視差)を検出する段階,第3の段階は,検出された視差を奥行きに変換する段階である.融合可能な刺激の特性や,視差の検出メカニズムの特性といった第1段階,第2段階のプロセスについては,従来の研究によって多くの特性が明らかにされてきた.しかし,視差が検出されれば,その情報がそのまま奥行きとして直接知覚されるわけではなく,視差から知覚される奥行きは,観察距離,対象となる刺激内部の視差の分布の特性,対象周辺の刺激の視差,他の奥行き手がかり等に依存して変化する.そのため,両眼立体視による奥行き知覚の特性を明らかにするには,検出された視差から奥行き知覚へ変換する段階について検討する必要がある.本論文では,この第3の段階である,視差から奥行き知覚への変換プロセスの特性について明らかにすることを目的とした.
第Ⅰ部では,ステレオ写真の対象内部の奥行き構造が平面的に知覚される書き割り効果と呼ばれる現象を取り上げ,この現象の解析を通じて,視差による対象内部の奥行き構造の知覚を抑制する要因を検討した.観察距離が撮影距離よりも短いことで,スケーリングの効果により知覚する奥行き構造が平面に近づくという仮説がHowardandRogers(1995)によって提案されていたが,本研究では,この観察距離の要因に加えて,背景-対象間の不連続な視差による抑制の効果について検討し,不連続な視差の効果も加わることによって明確な書き割り効果が生じることを示した.この不連続な視差の効果を詳細に検討した結果,この効果は,特に局所的な奥行きの強調によって生じていることを示した.これまで,輝度情報の処理と類似の局所的な奥行きの強調を明確に示す現象は存在しないとされてきたが,本研究において,こうした現象が存在することが確認された.この結果から,両眼立体視によるエッジ強調の効果は,輝度次元の側抑制のメカニズムと直接類推が成立するモデルによって説明できることを示した.また,観察距離の効果を検討した実験では,輻輳角の操作によって奥行き構造の知覚の検出閾が変化した.これまで観察距離情報によるスケーリングによって奥行き量の知覚が変化することは報告されてきたが,本研究では,観察距離の操作,特に輻輳角の操作によって奥行き量の知覚のみならず,奥行きの検出閾も変化することを示した.
第Ⅱ部では,物体内の奥行き構造知覚と物体間の奥行き差知覚を比較した.先行研究では,連続的な面の奥行きの検出が不連続な奥行き差よりも感度が低いことが報告されているが,物体内,物体間の奥行き知覚の特性について直接比較したわけではない.本研究では,奥行きのピーク位置を統制し,物体内と物体間の奥行き知覚の特性について直接的に比較できる刺激を用いることで,物体内と物体間の奥行き知覚の知覚特性の違いについて検討することが可能となった.実験の結果,物体内の奥行き構造知覚が物体間の奥行き差知覚よりも相対的に検出閾が高く,また,閾上の視差から知覚される奥行き量も小さくなることを示した.さらに,複数の面の刺激の上下端部を連結した場合でも,物体間の知覚をもたらす刺激よりも検出閾が高くなること,視差情報は不連続であっても,アモーダルな補完によって知覚的に連続的な単一の面として知覚されるような刺激であれば,同様に検出閾が高くなることを示した.これらの結果から,視差が一部でも連続している場合や,視差情報自体は不連続であっても内部表現では連続的な知覚をもたらす場合では,視覚系は1つの連続した物体として処理し,検出閾が高くなると考えられる.
以上より,本論文では,視差から奥行き知覚への変換プロセスに影響を及ぼす諸要因について,特に物体の奥行き構造の知覚に影響を及ぼす要因,物体の奥行き構造知覚と物体間の奥行き差知覚の知覚特性の違いについて詳細に検討した.実験の結果から,両眼立体視のメカニズムは,物体内部の連続的な奥行き構造の知覚に効率的な処理を行っておらず,物体間の不連続な奥行き差の知覚に特化された処理を行っていること,また,観察距離の情報は,視差から奥行きへの変換プロセスにおいて重要な役割を持ち,スケーリングの情報としてだけでなく,視差の検出感度も規定していることを示した.