本論文の目的は、住居言説を資料として近代日本における住居空間の形成過程を明らかにすることである。
第1章では、住居空間という対象へ、意匠や工学の立場からではなく、社会学の立場からアプローチするための基礎的な視角を示した。それは、居住する身体を軸としつつ、自然と社会の臨界に位置するマテリアルな過程、身体の複数性があらわになるミクロな社会過程、そして、マクロ社会的な構造編成の過程、という三つの局面で住居空間を捉えるというものである。
第2章では、研究の意義と方法論的な立場を明らかにした。まず、メディア研究におけるドメスティケーション論とモバイル・プライバタイゼーション論、マテリアル・カルチャー研究における商品化の再検討、フェミニズム研究におけるテクノロジー批判といった近年の英語圏における議論の蓄積を概観し、本論文を位置づけた。
本論文では、モノを作り上げるテクノロジーそのものというよりは、それに関わる言説の展開に着目する。このことは、実際の住宅や経験の「代理」として言説を用いるという以上の意味を持っている。具体的には、日本において住居言説がはじめて大量に出現する1910年代から、近代的住居空間の成熟が急激に進んだ1940年代までに、①家政学と生活改良運動(啓蒙・教育)、②都市住宅政策と住宅調査(調査・計画)、③広義の住宅産業(商品化・消費)、という三つの領域にあらわれた住居言説を資料とした。第3~5章は、①~③の領域に沿って構成されている。資料を通じて明らかになったのは、住宅という特異な商品を成り立たせる、政治・経済・アイデンティティが重層的にからんだ構造が確立しつつあった状況である。この構造のことを、「近代住居空間」と名付けた。
第6章では、結論部として、近代住居空間の社会的な条件と、その効果について論じた。
住居と居住者、そして住居と言説の強い結びつきは、住居の形成に関わる実践――私的空間への金銭と感情の投資――が、近代化そのものと深い関わりを持っていることに由来する。言説の展開のなかで注目すべきは、住宅の意匠もさることながら、そうした意匠が競い合われ、比較の視線にさらされ、「良い住宅」をめぐる論争の場が成立するという事態である。その「内容」(意匠)はどうであれ、論争という「形式」そのものは、大正期から戦後まで絶えることがなかった。
このような論争的な場に参入していたのは専門家だけではない。消費者もまた、これに深く関与している。体験記の投稿、素人設計競技への応募、そして手引書や体験記を読み、展覧会を観ることそれぞれが、この場への参加である。さらに、住宅取得に関わる経済的実践と美学的実践が織り合わされたプロセスは、「友愛家族」のイデオロギーによって促進される。一方で、こまごまとした用務を処理するための、長期にわたり細部の入り組んだ「消費」の過程は、家族関係の内実を「生産」する実践でもある。こうした論争と交渉の前提にあるのは、現状に対する絶え間ない違和感と際限のない改良(=形成)への指向である。
住居形成の前提になっているのは現状に対する欠如の意識である。ただし、それは近代住居空間の内部での相対的剥奪感である限り、欠如の認識と充足を繰り返すことは、近代住居空間へのより深い定着を意味する。住居言説の歴史社会学的検討が教えるのは、住宅単体の改変こそが問題の解決をもたらすという、多くの専門家、消費者を虜にしてきた発想こそが「技術的回避」を呼び込む、という厄介な構図である。
そこで、性急な解決を求める前に、まずは住居空間を作り上げるテクノロジーを、できる限りこうした発想から離れて解読することが必要となる。本論文は、社会的過程としての住居空間をとらえ、再編成の可能性と条件を追求するという、より長期にわたって取り組まれるべき課題に向かうための端緒となることを目指したものである。