台湾の歴史には、1895年から1945年までの50年間にわたった「日本統治期」がある。その主要作家である張文環は1933年東京で他の留日台湾知識人とともに「台湾芸術研究会」を組織し、台湾最初の日本語文芸雑誌『フオルモサ』を創刊、1935年には『中央公論』の小説懸賞に入選、帰台後の1941年からは雑誌『台湾文学』を発行する一方、精力的な創作活動を続け、戦時下の台湾文壇に絶大な影響力を発揮したのである。台湾文学史を語る上で絶対に欠くことのできない張文環だが、その作品は長い間もっぱら「風俗小説」との評価を受けてきた。「風俗小説」という風に評されるのは戦前の同時代作家と評論に由来するが、その内実が十分に検討されないまま、現在でも通説化している。
もともと「風俗小説」とは、日本文壇においてプロレタリア文化運動の最後の砦である『人民文庫』派の作家を評する時によく使われた言葉である。本稿は、張文環が「風俗小説」作家と評されるにいたるまでの日本のプロレタリア文学運動との関わりを明らかにし、それによって常に民族解放問題に直面せざるをえない植民地作家が宗主国経由での前衛思潮受容を通して、いかに自らの文学を成立させたか、そして結果的に宗主国と異なる文化をいかに創造発展させていったかを浮き彫りにしようとする試みである。そして、張文環が代表した日本語世代の台湾人作家の多くが、日本でその文学活動の道を歩み始め、「日本語」を知識吸収かつ創作する工具としている。植民宗主国の言語を操ることは、日本語世代の作家たちに前の世代と異なる文芸価値観を持ち合わせる結果をもたらして、台湾新文学の性格を大きく影響している。そのために、張文環の履歴を文学活動と作品を軸に分析することで、台湾新文学における「文芸」観の変化、及びその過程に照らされた民族と近代の葛藤について検討することも、本稿の目標となる。
まずは、張文環文学の出発点である「台湾芸術研究会」及びその機関誌『フオルモサ』の成立について、同時代の日本プロレタリア文化運動とまだ発展途上にあった台湾新文学運動という二つの運動の流れの中で捉え、その性格を把握する。1930年代の台湾文芸界に、島内から一定の距離を置く東京に位置しながら、台湾民族社会運動と日本プロレタリア文化運動という二重の権威を持つ「台湾芸術研究会」の『フオルモサ』が勢いよく登場した。プロレタリア運動を越えた「文芸」の多様な可能性など、『フオルモサ』は日本文壇との同時性により台湾新文学関係者に対して前衛性の保証を提供する。さらに「国語」=日本語を介して、日本ないし世界文壇と接点を持ち、日本語で直接創作する能力を具えていたことは、用語論に多くの精力を費やしながら尚、成果をあげることのできなかった島内文芸界に大きな刺激を与えたであろう。1937年の新聞漢文欄廃止という時勢も相まって、台湾人の日本語文学は『フオルモサ』を通じて台湾文壇の主導権を握るようになっていく。
『フオルモサ』停刊後張文環が発表した小説「父の要求」(1935)には、主人公が東京において左翼運動参加を理由に逮捕、釈放される過程に対する詳細な描写がみられ、「父の要求」を「転向文学」として認識する可能性を生み出している。その両者を対比し異同を明らかにすることにより、植民地知識青年がプロレタリア運動に従事する際に直面する伝統との断絶問題が明らかになる。また「父の要求」は、植民地青年の近代文明への憧憬が明確に表現された作品でもある。第一章で提起した「民族社会運動に内包される文芸」への意識変化という視点をそのままに、さらに「恋愛」によって具現化した張文環の「近代」憧憬の様相を分析することで、近代文明/伝統文化の構図が張文環の中で形成されていく過程が浮き彫られる。そして近代文明への憧憬、挫折から伝統回帰への過程という張文環文学の主題は、「山茶花」・「地方生活」・「土の匂ひ」など立身出世を求める青年が主人公である諸作品を系統的に究明することにより、張文環は同世代の新知識人が直面する現代/伝統及び都会/故郷の矛盾に対する思考の成果をまとめた。
最後、戦前の論者に「風俗小説」として認識されてきた「芸妲の家」など諸作品を取り上げ、「思想性」とは程遠い所にあった張文環の執筆意図を明らかにする。なかでも「芸妲の家」は当時台湾の社会問題となっていた「媳婦仔」という旧習の改善と関係しており、その執筆目的が社会改革にあったことを明らかにすることにより、「風俗小説」という枠では収めきれぬ張文環文学の特徴を浮かび上がらせる。しかし一方、日本『人民文庫』派作家武田麟太郎、高見順、平林彪吾との交遊関係が証明される張文環であるが、「芸妲の家」を含め多くの作品に『人民文庫』派文学の特徴である「饒舌」な説話スタイルが見られる。
以上のように、「風俗小説」と見なされてきた張文環の小説の一部は再評価の可能性を秘めてはいるものの、一方これらの作品に「風俗小説」と批判されてしかるべき欠陥が明らかに存在することも確かに否定できない。しかしいずれにしても実際のところ、張文環文学に対する綿密な検討もないまま「風俗小説」という評価を現在もなお肯定的に使用しているのが、多くの台湾文学研究者の現状ではないだろうか。本稿は「風俗小説」を切り口に、プロレタリア文化運動への関与をその文学的出発点とする植民地作家、張文環の活動を日本・台湾が交差する文脈に還元し、同時代における位置づけを試みるものであるが、それはまた台湾新文学史の諸問題を再考するための端緒ともなるであろう。