本研究は、日本の律令国家の形成とともに史上に登場する百済王氏という氏族の検討を通じて、七世紀末の律令国家の成立から、八世紀以降の展開・発展・転換の様相をたどりつつ、東アジア世界からみた日本の律令国家の本質を探ることを目的とした。
第一部「日本律令国家の成立と百済王氏」では、これまでの百済王氏の成立に関する大部分の研究が、日本側の視点に立っていることに対して、百済復興軍および百済からの移住民の立場から検討することの有効性を提起するとともに、百済王氏成立の前史としての「百済王」の存在に注目し、百済の国内事情と倭政権の外交政策という複合的な観点から、百済王氏成立の歴史的背景を検討した。こうした検討により、七世紀の「百済王」から八世紀以降の「百済王氏」への変化像がより説得的に理解することができた。
第二部「日本律令国家の展開と百済王氏」では、奈良時代の百済王氏について、今までの研究が指摘するような一面的な律令官人化にとどまらない、百済王氏の姿をとらえようとするものであった。百済王敬福は、東大寺大仏の鍍金に必要な黄金の献上者として名高いが、百済王氏集団の居住地を摂津国百済郡から河内国交野郡へ遷したことでも知られている。八世紀中葉のこの時期に、百済王氏が集団移住と集団居住をしていることの意味を探ることにより、集団としての「百済王氏」が律令国家にとって果たした役割を検討した。
第三部「日本律令国家の転換と百済王氏」では、平安時代以降の百済王氏の展開について検討した。百済王氏は、平安初期までは文献上にその活動を頻繁に窺うことができるが、仁明天皇期を境目にして、朝廷と地方行政の両面でその姿が見えにくくなる。一方でこの変化が起こる九世紀の半ばは、律令国家の転換期とも言われる時期にあたる。百済王氏の変化は、こうした律令国家の転換とも大いに関わりがあると考えられるのであり、この点について検討することは、日本律令国家の特性を探ることにおいて、大いに注目する必要があるという結論に至った。
結論「律令国家における百済王氏の存在意義」では、百済王氏を通じてみる日本律令国家論、また日本律令国家内での百済王氏の存在を通じて、日本律令国家と百済王氏の両面から、互いの存在意義を検討できることを指摘した。
附論として、「正倉院所蔵『華厳経論帙内貼文書』(いわゆる新羅村落文書)について」(初出は『東京大学日本史学研究室紀要』七、二〇〇三年三月)を加えた。正倉院文書に残る新羅関係文書に注目し、その伝来過程の復元を通じて、日本列島と半島との古代の文化交流の一端を探ることを目的とした論考である。基礎的な研究史の整理と展望を述べたものだが、本稿では、本文書が七世紀における半島からの文物流入の実態をうかがわせる史料である可能性を指摘し、百済王氏にとどまらない、七世紀段階における文化交流のさまざまな側面の一つであることを明らかにした。