本論文の目的は、近世の地域社会における穀物流通の構造、および都市と農村において活動した商人の存在形態の検討を通じて、地域社会構造の歴史的特質を解明することである。
第一部「十七世紀の市と地域」では、小布施市と善光寺市を対象に、北信地方における市と都市の存立構造が十七世紀を通じていかなる変化を遂げ、そこからどのように商品流通が展開したのかを考察した。十七世紀の市は、市日にあわせて移動する商人が、市町の屋敷所持主から屋敷前を借りて莚を敷き商売を行う莚市=前見世を主要な売買の場としていた。莚市は市町の内部において、市元(市頭)を起点とした順番で設置された。市元を設置する主体は十七世紀前半には市町の開発者や代官など、公私にわたる権力を併せ持った者であったが、十七世紀後半には市町に移行し、屋敷所持に基づいた市町の共同体としての地縁的な枠組みは強化された。しかしこのころ同時に近隣の百姓が市において多く穀物を売却するようになり、彼らと結びついた宿=穀屋が増加し、宿みずから商品の売買に参加するようになって、市における売買のあり方を侵食した。さらに善光寺町ではかかる動向により都市内の対立が起こり、商品流通の動向に規定されて都市が分節的に発展した。また第一部では、近世善光寺町を宗教都市としてとらえた場合、いかなる構造的特質を持ち、それが人々の生活といかに関わったかについても考察した。
第二部「十九世紀の穀物商人と領主権力」では、十九世紀の北信地方全域において穀物が幅広く移動する様相を領主権力の動向との関連において追究した。十九世紀になると、飯山藩の財政政策の一環として発行された年貢籾手形が北信地方の豪農商層の間で広く流通し、手形転売ネットワークや金融ネットワークの形成を促進した。手形所有者は生産過程を掌握できず、村請制の枠組みは維持され続けたが、このようにして北信地方の内部で貨幣流通の論理と複雑に関連しつつ大量の穀物が流通した。また松代藩は、十九世紀になると領内における穀相場の安定と領民への穀物供給のために、穀物の流通過程を掌握しようとした。特に安政の開港を画期として穀物の領外流出が深刻化し、松代藩は駄賃稼層や小資本の持ち手による穀物売買も含めて全領にわたる網羅的な把握を行おうとした。しかし地域における穀物流通の構造およびそれをとりまく人々の利害はいっそう複雑となっており、把握は困難であった。また第二部では、十九世紀の北信地方において穀物商人が穀物を求めて地域内を広く移動し、情報収集を行いながら相対取引を行う様相を明らかにした。この取引は前金の支払い方式を利用して行われたのであり、このようにして大量の穀物が地域内を移動することができたことが明らかとなった。
第三部「十九世紀の穀物流通と地域」では、十九世紀の穀物商人の活動を、小布施村と善光寺町という具体的な場にそくして検討した。小布施村の穀屋は、十七世紀以来の市の内外において展開した宿の系譜を引き、貨幣所有および売買相手との関係所有に基づく大規模経営を行っていた。穀屋の経営は一方では在地社会の人々の穀物需要に規定されていたが、他方では貨幣流通のネットワークとも強い関連を持っていた。こうして十九世紀には、地域の内部において莫大な量の穀物が流通し、大多数の人々が、穀物の購入あるいは貨幣の貸借を通じて、穀屋を中心とする豪農商層による貨幣流通の論理に組み込まれていった。一方善光寺町では、個別町である西町の屋敷割と家作、および生業相互の関連を検討し、都市的な社会=空間構造が成熟する様相を捉えた。しかし天保期以降の善光寺町では周辺に町場が延長し、穀物流入が滞った中心部では衰退が始まった。善光寺町の側では、商品の入荷を円滑に進めるため、問屋場や入穀改会所の機能強化を主張したが、それだけでは商品を引き付ける条件としては不十分であった。この段階に至ると、個々の商人による貨幣所有、もしくは在方との関係所有の強化こそがより重要となっていたといえる。