運動する物体の知覚は複数の処理過程が協調することで成立していると考えられる.これらの処理過程に対する過去の諸研究は,運動そのものの検出メカニズム,運動物体の速度,運動物体の位置といったように,運動の各側面に対する検討が進められてきた.結果,運動そのものの検出メカニズムについては,予測力の高い,良いモデルが提唱された.また,運動物体の速度,及び位置に関しては様々な現象が報告され,それらの現象に対する詳細な検討が盛んに行われている.しかし,これらの結果を俯瞰的に扱い,運動知覚について総括的な議論を行った研究はほとんど無い.本論文はこのような視点に立ち,運動そのもの検出と,その出力に基づくと考えられる運動物体の速度,位置の知覚の関係について検討を行った.
その検討の中心は「知覚的ずれ現象」という新しい錯視現象についてのものであった.これは,輝度で定義される縞とその他の属性で定義される縞を同位相,同速度で提示すると,本来はそろっているはずの2種の縞の位相がずれて知覚される現象である.
はじめに,知覚的ずれの性質について,2つの縞パターンの物理・知覚速度と空間周波数を操作して検討した.結果,この知覚的ずれは,縞パターンの物理速度の増大とともに増大するが,パターンのコントラストを操作することによって知覚速度を操作しても系統的な影響はないことが示された.さらに,知覚的ずれの縞パターンに対する相対的な大きさは一定であり,位相角としての知覚的ずれの大きさはパターンの空間周波数に依存しないことが示された.また,これらの検討を行う中で,運動定義運動の知覚速度と輝度定義運動の知覚速度の比較を行った.その結果,運動定義運動が輝度定義運動よりも大きい知覚速度を持ちうることを示した.
本論文ではさらに,これらの結果から知覚的ずれの起源が2種の運動刺激に対する処理時間差であるという仮説をたてて,この仮説についての具体的な検討をおこなった.もしも,この仮説が正しいとすれば,知覚的ずれは2種の縞間の物理的な空間ずれ及び時間ずれの双方で打ち消すことができ,さらにそのようにして測定された知覚的ずれの時間次元での推定値は一定となることが予想される.2種の運動刺激のシフト時刻に時間ずれを導入して知覚的ずれを測定した実験の結果,結果はこれらの予測に沿ったものとなった.物理的なシフト時刻のずれ(物理的な時間ずれ)は知覚的ずれを相殺した.この結果を前の実験結果と合わせると,知覚的ずれは空間・時間のいずれによっても相殺されることになる.さらに,物理的な時間ずれによる打ち消しから推定された知覚的ずれの値(時間的推定値)に物理速度を乗じると,物理的な空間ずれによる打ち消しから推定された知覚的ずれの値(空間的推定値)の値とほぼ一致した.
すなわち,以上の実験結果は,知覚的ずれは2種の異なる属性で定義された運動刺激の刺激処理上で生じた時間ずれが,パターンの速度を媒介として空間ずれに変換されて知覚される現象であることを示している.また特に,時間次元と空間次元での知覚的ずれの推定値の対応は,視覚系のある段階において,時間と空間の間に量的な可換性があることを示している.

本論文の後半では,前半で示された時間と空間の可換性を支えるメカニズムについての検討を行った.これについて,本論文では時間と空間の可換性がFourier型と呼ばれる初期的な運動検出器によって支えられているとする仮説を立て,これについて検討を行った.Fourier型の運動検出器であるかどうかについて検討を行った.本論文では,運動定義運動に対するFourier型の運動検出器がISIの導入によって阻害されることを示した.これに基づいて,ISI導入が知覚的ずれにもたらす影響について検討を行った.その結果,ISIの導入時には知覚的ずれに見られた時間と空間の可換性が崩壊することを示した.これは,視覚系の比較的初期の段階において時間・空間の可換性がFourier型の運動検出器によって支えられていることを示している.
本研究で示した時間と空間の可換性は,知覚処理のある段階では時間と空間が一つの次元量として表象されている可能性を示している.これが正しいとすると,この次元量はより高次の過程で我々の知覚する時間・空間に分離される必要がある.Fourier型の運動検出器は比較的初期の過程で時空間の分離を支えている可能性がある.本論文の議論は,これまで初期的な運動検出器と呼ばれてきた検出器が単なる運動の検出器を越えて,基本的な知覚の時空間を張る役割を果たしている可能性を示したといえる.