本論文のテーマは、1767年のアユタヤ崩壊後から、19世紀半ばにおけるシャムの対中朝貢使節派遣停止までの期間における、シャムの対中外交と対中観である。前近代シャムの対中関係に関する先行研究は、主として漢文史料により、対中ジャンク交易の盛衰に焦点をあて行われてきた。それらの研究は、対中関係がシャムに対して持った最大の意義はジャンク交易の利益獲得にあった、という点を明らかにしている。その反面、シャムの対中交渉をシャムの政治史の中に位置づけ、シャムの主体的選択を明らかにする、という視点が見落とされてきたことが指摘できる。そのため、本論文においては、公刊、未公刊を含めシャム、中国双方の史料を比較検討しつつ、該当時期におけるシャムの対中外交の過程を再現し、それによって相互の関係理解の相違を明らかにした上で、その中からシャム固有の対中観を明らかにしていくよう努めた。
1767年のビルマによるアユタヤの破壊によってシャムの朝貢使節派遣が滞り、疑念を抱いた清朝はシャムの政治情報収集に関心を寄せた。そのため、トンブリー時代(1767-1782)のシャムに関する清朝の実録、档案の記事は、前代、後代に類を見ないほど詳細であり、シャム側史料には見出せないシャムの政治情勢に関する情報が記されている。そこで、まず第一章において全体的な時代背景に触れた後、第二章においては、主として漢文史料により、シャムの王朝年代記中の記事をも参照しつつトンブリー時代の対中交渉の過程に関して、再構成を行う。アユタヤの旧支配者層に代わって王位についたタークシン(在1768-1782)は、シャム湾から南シナ海をへて広東に連なる領域をも復興策の視野範囲とした。対中朝貢交易によって戦略物資を獲得するためには、タークシンは清朝に対して王権の正統性を証明する必要があった。清朝との交渉にあたっては、広東における官僚との接触に、華人商人層が積極的に登用されたことが漢文史料から伺える。また、シャムの華人にとっては、政治的な混乱状況は、主に軍事力として当時のシャムの支配機構の中心部に進出する機会でもあった。1781年にタークシンによって派遣された最後の朝貢使節が用意した国書のタイ語文には「中国に使節を派遣し、chimkongに行く」という「進貢」という中国語の音訳語が用いられている。この単語は、少なくともトンブリー時代あるいはシャムと中国の政治的距離が接近した18世紀初頭から、シャムと中国の関係を表す用語としてシャムにおいて用いられ始めたのではないかと予測される。
統治末期においてはタークシンは暹羅(清朝から見たシャムの呼称)の支配者として認められつつあったが、清朝からの王権の認証は、シャムおいては究極的に王権の正統性を保障するものではなかったことは、1782年にタークシンが非法王として処刑されたことからも明らかである。しかし一方で、初期ラタナコーシン朝(1782-1854)の諸王は、タークシンの築いた対中外交の枠組みを受け継ぎ、chimkongの語を中国との関係のみに用い、即位にあたって受ける清帝よりの王権の認証と、朝貢の儀礼面を重要視していたことがシャム、清朝の記録に残っている。第三章においては、対中ジャンク交易の未曾有の発展期である18世紀末から1830年ころにかけての時期において、シャムの支配者層にとって対中朝貢がもった政治的意義に関して検討を行う。
その後、対中ジャンク交易は、1830年代に入って衰退期を迎えたといわれている。第四章においては、同時期において、シャムの対中観がどのように変化していったのかを検討する。ラーマ3世(在1824-1851)は、アヘン戦争で清朝の陥った政治的危機について、華人商人、西欧人などによってもたらされた情報によってある程度把握していた。この時期における対中観に関しては、次第に人口が増加し、特にアヘンをめぐる騒乱を多発させていた国内の華人問題とも関連付けて考察する必要がある。また一方で注目されるのは、ジャンク交易の衰退期にあっても、朝貢の儀礼面は重要視されていた点である。
第五章においては、続くラーマ4世(在1851-1868)の治世における対中朝貢使節派遣停止についてをとりあげる。清朝の政治的威信が危機にさらされていることを既に知っていた4世王もまた、即位にあたって王権の認証を求める朝貢使節を清朝に派遣していたことは注目に値する。しかし、1855年にイギリスとの間にシャムの開国条約であるボウリング条約が締結され、シャムの対外関係の中心軸は欧米諸国へと移っていった。中国の朝貢システムへの参入は終焉を迎え、それと共に対中朝貢chimkongの持った意義、特に政治的側面はシャムの歴史的記憶の中から忘れ去られていったのである。第三章から第五章にかけて中心的に用いた史料は、シャム側の未公刊史料であり、これらの活用によって、従来漢文、欧米史料によって推測的に描かれてきた、初期ラタナコーシン朝におけるシャムの対外観の重要な一側面である対中観を明らかにしたことが本論文の特色である。