本稿は7世紀初頭までを中心に,突厥分権化の過程を検討することを第一の目的とする。その際,鉄勒・吐谷渾の突厥史における重要性があらためて明確となるので,これらを通じて東半ユーラシア史と突厥史の結節点をみいだし,新たな展望を得ようと思う。また,実証史学の欠点をみすえて歴史学の客観的な方法を試行することを第二の目的とする。
漢語「西突厥」を漢文史料中に精査すると,統葉護可汗政権,古く見積もって射匱可汗政権を指す用例より遡らない。それ以前の突厥西部境域の呼称としては「西面〔突厥〕」が認められる。このことは,『隋書』西突厥条冒頭文に強く依存した通説を無批判に受容する危険性を警告すると同時に,歴代史書の「西突厥」の起源に関する記述が解釈に過ぎない可能性をも想起させる。そこで諸史書の「西突厥」起源観について整理する。『隋書』は「西突厥」の開祖を大邏便とし成立時点について明示していない。初めて「西突厥」成立時点を示したのは『資治通鑑』である(585年)。一方,『新唐書』は開祖を玷厥とし,『旧唐書』は起源を明示していない。『旧唐書』の見解は,旧来の「西突厥」大邏便起源説を継承する立場,旧来の見解に疑問を抱いた立場,両様の可能性がある。いずれにせよ非大邏便起源説の明確な見解を最初に示したのは『新唐書』である。
突厥可汗の系譜・継承における問題については以下のごとくである。土門が科羅の兄である可能性は父である可能性より極めて高い。摂図→雍虞閭の継承が,摂図→処羅侯→雍虞閭より若干可能性が高く,処羅侯・雍虞閭ともに登位した可能性も僅かながら存在する。染干は,摂図の子である可能性が処羅侯の子である可能性より高く,これにより思摩が処羅侯の子である可能性も高いと判断される。思摩可汗登位の蓋然性も高く,これに依存する条件下で,治下の人間集団による推挙で登位している思摩・雍虞閭・泥利可汗は即位形式上等質の「大可汗」と想定される。また,トゥルファン出土文書中に見える人物についても,「阿博珂寒(=大邏便)」・「貪珂寒(=貪汗可汗)」が従来の見解通りで問題なく,「南葙珂寒」と「南相珂寒」は大邏便等と同時代の同一人物であったと目される。「恕邏珂寒」・「吐屯抴」は,各々,達漫・伊吾の吐屯設である可能性がきわめて高く,「尼利珂蜜」を泥利可汗とする決定的根拠は存在しない。「北相珂寒」は達漫と同時代人の可能性が極めて高い。
以上の結果をふまえて,鉄勒の動静に着目しつつ7世紀初頭までの突厥情勢を通観する。突厥最初の対外戦争で征服された鉄勒は,軍事面で突厥に大きく寄与した。燕都~菴羅の治世における西部-中央-東部の構造は,摂図の治世以降変化し,中央と東部の一体性が強まる一方,鉄勒を管轄下におく北部領域の存在が顕著となる。雍虞閭政権崩壊後,鉄勒諸部族は可汗を称して独立政権を樹立し,7世紀初頭に至って,旧突厥領は西部領域・鉄勒独立政権・染干傀儡政権の三極構造に移行する。なお,摂図の治世における西部・北部・中央-東部の構造は,6世紀末の泥利可汗(達漫)・思摩・雍虞閭の可汗鼎立状況の生じる基盤となった可能性がある。その後,射匱可汗が強大化すると鉄勒独立政権は可汗位を辞退し,ここで初めて突厥旧領は二極化する(ほぼ「西突厥」という語の存在が史料上明確になる時期でもある)。現代人が「西突厥」という語を使う際,当時の漢土の住民の観念に従うことを前提条件とすることはいうまでもないが,射匱可汗政権より前の西部領域にこの語を適用することは避けるべきである。
大可汗の母系の貴賎が重視された突厥において,可汗の母系としては「中国人」向氏,吐谷渾の婆施氏,暾欲谷の娘(阿史徳氏出身?)が指摘でき,明確に貴たる血統とみなされるのは吐谷渾のみである。突厥と吐谷渾の関係については,燕都による吐谷渾攻撃の後,闕達設による攻撃という特例を除けば,およそ平和的なものであった。吐谷渾は突厥の外戚のみならず突厥高官をも輩出し,「国人」層にも尊重される存在だった可能性が高い。一方,可汗の母族としての阿史徳氏については確証が得られず,そもそも阿史徳氏自体,突厥前半期の史料に現れない。なお,暾欲谷・阿史徳元珍同一人物説について,その確実な証拠はない。
突厥勃興直前の東半ユーラシアで優勢だった鮮卑系諸族の血統は,突厥・隋唐の君主家に導入され,突厥・唐で鮮卑の血をひく君主が誕生している。また,鉄勒諸部は突厥三極構造の一翼を担っていた。突厥の中に脈流をみいだすことのできる鮮卑・鉄勒,および突厥の三要素は漢土における沙陀政権の成立へと集約されていくのではないかとの課題・展望が提示できる。