固有名詞学はポーランド本国では一世紀を超える歴史と伝統ある研究領域であるが,日本ではそうした扱いを受けておらず,研究は主に在野の研究者によって進められてきた.本稿は日本におけるポーランド固有名詞学に関する初の論考である.
序章では,固有名詞学の研究スコープと研究史を問題にした.固有名詞学の主たる研究フィールドは人名学と地名学であるが,その他,動植物名学も入る.本稿は固有名詞学の中心領域を扱う.次いで,ポーランドの固有名詞学研究を概観した.
第1章はポーランド人の苗字を扱った.ポーランドでは苗字の総数が判明している.その数は40万強であるが,人口比を考えるとその数は膨大である.苗字は人物特定の補助手段として形成されていったが,それは万国共通に見られるプロセスである.
苗字の型をポーランド起源型と外国起源型に分けて調べた.
ポーランド起源型については,「職業・役職名派生型」「地形派生型」「地名派生型」「父名派生型」「母名派生型」「綽名派生型」「その他」に分けて考察した.苗字の分類は実際にはかなり難しいものが多い.
古来からのポーランド人と異民族との接触・交流は苗字にも痕跡を留めている.本稿では,起源別に外国起源の姓を取り上げた.
日本では改姓は婚姻などの場合を除けば極めて難しいが,ポーランドは比較的緩やかと言えるであろう.改姓の条件は,4つある.①滑稽あるいは人間の尊厳を傷つけるような姓の場合,②非ポーランド的な姓の場合,③名前の形をした姓の場合,④申請者が自身の姓を,多年にわたり使用している戸籍上の姓とは別の姓に変更したいと望む場合,である.
これらのうち,①を理由に改姓する人が最も多い.名詞型の苗字から-ski型に改める人が抜いて多いことが明らかとなった.②を改姓理由とする人は今日では多くない.③,④を理由とする人は意外にもほとんどいない.
第2章ではポーランド人の名前を扱った.名前はスラヴ起源型と外国起源型に分けて考えることができる.スラヴ起源型はさらに合成型,短縮型,単型に分けられる.外国起源型は数が多い.
命名にあたっては法的に一定の制限がある.①名前は1つないし2つしか付けることができない.3つ以上は不可,②性別判定不能な名は不可,③名前は原則的に選択性であり,自由に創造することができない,④ポーランド科学アカデミーが作成した「ポーランドで使用されている名前の一覧」(男性名655,女性名521収録)から外れる名前を付けたい場合は,科学アカデミー言語文化局の判断を仰がなければならない,などがそれである.言語文化局はポーランド語の正書法に合わない表記については不可とする方針を示してきたが,その原則に反する相当数の名前(約2万種)が登録されているのが実情である.
命名理由はさまざまであるが,「愛称形の響き」が重視されていることがわかった.それぞれの名前が持つ語源的・歴史的由来についてはほとんど考慮されていない.この辺の事情は,表意文字の漢字が表音文字として使われている(「当て字」の利用)昨今の日本の命名事情と共通する点が見られる.
ポーランドの命名にも流行り廃りがあることはデータからも確認された.なぜ命名にブームがあるのかは定かでない.ただ,「平時」でない時には名前は時代を映す鏡のような機能も持ち合わす.ポーランドでは亡国の19世紀に,英雄の名前に肖ることがブームになっていたことがある.
ポーランドでは改姓に準じて改名が認められている.名前が原則選択性になっているポーランドで“悪い”名前というものは基本的に存在しない.にもかかわらず,さまざまな理由から改名が申請され,認可されている.改名動機は主観的理由によるものがほとんどである.また,どの名前が嫌われ,どの名前が好まれるかも一般化はすることはできない.
改姓の場合は前姓との繋がりを残しておく人が少なくないが,改名ではそうした人は3割程度に過ぎない
固有名詞学がカヴァーする領域は人名学,地名学に留まらない.本稿が取り扱った領域は限られたものでしかない.劇場名,会社名,製品名など,その研究対象は実に広範である.それらも含めた固有名詞学の総合的・包括的な研究が今後の課題となろう.