明治維新において、中心的役割を果たしたのは武士である。しかし近世における武士身分は、維新後急速に解体される。武士身分の解体とは、即ち国役を通して全人民を国家的諸身分に編成した近世国家の解体に他ならない。本稿は、寛政期以降、特に天保改革期の萩毛利家における軍制再建の取り組みを具体的に検討し、そこから武士身分の解体課程を展望するものである。
対外的危機の発生は、武士身分に本来の軍事的役割の遂行を要請する。公儀は海防強化を諸大名以下に令し、それを受けた萩毛利家においても、幕藩領主権力の一端としての海防体制の構築が要請されることとなる。ここに、弛緩した軍役動員体制と、形骸化した家中の軍事的機能――軍団の再編が開始されるのである。しかし、対外的危機の強弱、公儀の海防策の進退に伴い、萩毛利家における軍制再建の動きにも緩急が出る。これがアヘン戦争情報に触発され、さらに公儀の大名諸家軍事力強化への政策転換を受けて本格的に企及されはじめたのは、萩毛利家においては天保改革期である。それはまず、軍役動員の可否を確認する羽賀台大繰練の実施から開始され、弘化三年一二月の海防報告書の提出で一応の区切りを迎える。本稿で設定した天保改革期とはこの公儀への海防報告完了までの時期を指している。この時期の海防は、未だ家中に対し対外危機が直接訴えられる状況には至っておらず、国家的役負担の体系のなかでその充実が目指される。
しかし嘉永初年には、異国船目撃情報が急増し、対外的危機の存在が像を結び始める。萩毛利家においても北浦沿海警衛体制の強化が強く意識された時期であり、「永久之備」としての海防体制構築のため、家中の編成そのものを見直す動きが出て来る。八手惣奉行制の導入、御前警衛・水軍陸軍両撰鋒隊の編成、「武具定」の改訂がそれである。
これらの施策は天保改革期以降の一連の海防強化策の一環として理解され、そこには通説的な村田・坪井両派の政権交代による政策の変更や後退などは見出せない。羽賀台大繰練以降も、萩毛利家では軍役動員体制の整備と形骸化した家中の軍事的機能――軍団再編事業がずっと継続されて嘉永期に至るのであり、この八手惣奉行制の策定以下の政策でもって一つの区切りを迎えたと考える。本稿では、この一連の事業を軍制再建と捉えている。
元来武装自弁の戦闘者であることを建前とする武士身分においては、軍役相応の人数・武器を調え、その戦闘者としての能力を維持することこそが、その成り立ちを意味するはずである。しかし近世後期の萩毛利家においては、実際にはその中核的家臣団であるところの大組層においてさえも、軍役人馬の備えに怠り、本人もまた武術の習得に怠るという有様であった。海防問題の発生により、武士身分に再び本来の軍事的役割が要請されたとき、本来の武士身分たるべく武装自弁であろうとする志向と、それを許さない諸状況の存在との葛藤のなかにこの期の軍制改革は進行する。長期間に亘る国内的平和の実現が変質せしめた武士身分に、再び武装自弁の戦闘者であることが要請された時、武士身分の解体過程は既に緒についていたのである。