本稿は、人間が経験する<現われ>とその秩序の構築という視点からビラニスム期におけるメーヌ・ド・ビラン哲学の総合的な研究を目指すものである。そして本稿は、彼の探求の動機を、人間的主体が経験する事がらの秩序立てと、各々の領域における<現われ>の秩序の探求として捉え、特に、ビランが「体系」という言葉を導入することで追跡しようとした人間の認識諸能力の様々なありようを、ビランに従いつつ分析しようとするものである。
第1部では、ビラニスムに至るメーヌ・ド・ビランの思想の発展を、彼の師であったカバニス、デステュット・ド・トラシなどとの対比によって明らかにすることを目指す。この作業は、「感覚」という一元的な場面から人間の能力の成長を描こうというイデオロジストの発想の不可能性をメーヌ・ド・ビランが自覚する過程を記述し、ビラニスムの独自性を際立たせるものである。
第2部に於いては、第1部の分析を踏まえたうえで、ビラニスムにおける主要な概念の分析、並びにこれらの概念相互の関係が吟味される。
第1章では、ビランが学の対象として導入した「事実」の概念が分析される。ビランは事実の必要条件として、意志する<私>を取り出し、かつこの<私>が経験する事がらを内的事実と外的事実に分割することで、人間の諸能力の分析を行う際に記述されるべきが、内的事実の独自性であることを発見するに至る。そしてビランは、<私>の自己感知を表現する言葉として、意志する<私>と抵抗する身体というに項関係によって構成される「根源的事実」という語を見出すことになる。
第2部第2章においては、自我を構成する努力の様態、並びに根源的事実の対象項たる固有身体の構造が特に分析される。本章では特に「内在的努力」と志向的努力の区別に着目し、またこれらの努力の対象である身体のあり方も、この区別に乗っ取って分析される。
第2部第3章においては、<私>が様々な<現われ>を構造化し秩序付けていくために、<私>と固有身体との関係性から取り出される「反省的諸観念」の内実が吟味される。自我は自らを構成する力と同一化し、自らの構造を純粋に取り出すことによって、「因果性」「一」「実体」といった反省的諸観念を取り出すのであり、これらの諸観念を用いて自我が世界の構造を秩序付けていく。
第3部では、第2部の成果を踏まえつつ、ビラニスム期のメーヌ・ド・ビランが体系という言葉を用いて行った人間的諸能力の諸段階の分析を吟味する。その目的は、<私>が自らを構成する努力の様態に応じて、様々の<現われ>を受容しかつその秩序を見出していくプロセスをビランに即しながら記述することである。
第3部第1章では、「触発的体系」の特質が論じられる。「触発的な諸力」は自我とは異なる独自の活動に従って活動するのであり、あるときは自我を吸収してしまうが、他方、自我が自由にする運動を準備し、あるいはその価値を人間的生に告げ知らせるという働きもなす。第1章においては<私>とこの触発的諸力との錯綜した関係が記述される。
第3部第2章においては、「内在的努力」「共通の努力」によって構成される<私>の経験の様態が分析される。その過程では特に、ビラニスムにおける「直観」の概念の重要性が強調される。また本章に於いては、全体としての身体の位置を変える「共通の努力」によって構成される<私>が特に取り出され、<私>が肉体の位置を変えることが人間的生においていかなる意義を持つのかが考察される。
第3部第3章においては、努力の度合いが高まり志向的な努力を用いるようになる<私>の様態、並びにこの<私>が経験する諸々の<現われ>とその秩序が論じられる。この<私>は志向的な努力としての「注意」を自由に用いることで、日常的な世界を構築し、またメーヌ・ド・ビランが理解していた意味での自然科学を構成することになる。
第3部第4章においては、メーヌ・ド・ビランの哲学の方法としての「反省」の能力が吟味される。ビランの言う反省とは、<私>が自らの身体を動かすことによって自由にする諸能力を実際に使用しつつ確認することであり、また、複数の能力を用いることによって諸々の<現われ>に秩序を見出していくプロセスの確認である。そしてビランの反省の方法をこうした視点で捉えたときに、ビランが行う「体系」の記述は、優れてビランの言う反省の方法の実践的な模範として、新たにその地位を獲得するのである。