本研究では、視覚情報処理の初期過程を担っている網膜におけるグルタミン酸作動性シナプス伝達の調節機構について、神経科学的手法を用いて実験的に検討した。
第1章では、シナプス伝達の性質と脊椎動物網膜における情報伝達経路について概観し、本研究の目的を明らかにした。網膜では、光が生体内電気信号に変換され、最初の情報処理が行われる。網膜での主要な情報伝達経路としては、視細胞-双極細胞-神経節細胞という経路があり、視細胞-双極細胞間と双極細胞-神経節細胞間のシナプスにおいて共にグルタミン酸作動性の伝達が行われている。グルタミン酸受容体には、イオンチャンネル型(非NMDA受容体とNMDA受容体)と代謝型(グループI、Ⅱ、Ⅲ)が存在する。網膜には、光が点いた情報を担う経路(ON経路)と光が消えた情報を担う経路(OFF経路)が存在する。視細胞から双極細胞へグルタミン酸による最初のシナプス伝達が行われる外網状層においてON経路とOFF経路が分離する。ON型双極細胞には代謝型グルタミン酸受容体が存在し、OFF型双極細胞には非NMDA受容体が存在するため、光に対する応答の極性が異なる。代謝型グルタミン酸受容体のサブタイプがクローニングされ、ON型双極細胞の樹状突起にはグループⅢに属する受容体サブタイプのmGluR6が特異的に存在していることが明らかにされた。しかし、シナプスが形成されている外網状層と内網状層にはmGluR6以外のグループⅢ代謝型グルタミン酸受容体も広く分布しており、これまで視細胞-ON型双極細胞間のシナプス伝達を選択的に阻害すると考えられていたL-AP4という薬物は、ON型双極細胞以外のグループⅢ代謝型グルタミン酸受容体にも作用する可能性が高い。そこで、本研究では、mGluR6以外のグループⅢ代謝型グルタミン酸受容体が、グルタミン酸作動性シナプス伝達に対して果たしている機能とそのメカニズムを解明することを目的とした。実験には、イモリ網膜スライス標本を用い、各種の神経細胞から電気的応答を記録してL-AP4の効果を解析した。
第2章では、網膜内網状層における双極細胞-神経節細胞層(GanglionCellLayer)に存在する細胞(以下、神経節細胞と異所性アマクリン細胞をまとめて「GCL細胞」と呼ぶ。)間のグルタミン酸作動性シナプス伝達に対するグループⅢ代謝型グルタミン酸受容体の機能について検討した。GCL細胞を膜電位固定して光応答を記録した。網膜に存在するグループⅢ代謝型グルタミン酸受容体をL-AP4によって活性化すると、GCL細胞のON応答が消失するだけでなくOFF応答も減弱した。しかし、双極細胞のCa2+電流とCa2+流入以降のグルタミン酸放出機構は、ON型双極細胞でもOFF型双極細胞でもL-AP4によって影響を受けなかった。したがって、L-AP4は内網状層での双極細胞-GCL細胞間のシナプス伝達には直接影響を及ぼしてはいないことが明らかになり、L-AP4によるGCL細胞のOFF応答の減弱は外網状層のシナプス伝達における変化に起因すると推察された。
第3章では、外網状層のグルタミン酸作動性シナプス伝達に対するグル-プⅢ代謝型グルタミン酸受容体の機能について検討した。網膜第2次ニューロンであるOFF型双極細胞と水平細胞の両方において、暗時の定常的内向き電流や光刺激に対するOFF応答が、L-AP4によって抑制された。しかし、OFF型双極細胞や水平細胞のグルタミン酸に対する応答特性は変化しなかった。したがって、視細胞からのグルタミン酸放出がL-AP4によって抑制されることが明らかになった。
第4章では、視細胞からのグルタミン酸放出がL-AP4によって抑制される機構について検討した。明所視で働く錐体のL型Ca2+電流は、L-AP4によって活性化キネティクスが遅くなると共に振幅が減少し、その結果として錐体からのグルタミン酸放出も抑制された。一方、暗所視で働く桿体においては、L型Ca2+電流やグルタミン酸放出に対してL-AP4は何ら影響を及ぼさなかった。錐体のCa2+電流は、桿体のCa2+電流に比べて活性化のキネティクスが遅かった。
第5章では、錐体Ca2+電流の活性化キネティクスを調節する機構について検討した。錐体のCa2+電流は、プレパルスを与えると促通効果が生じ見かけ上活性化が速くなった。桿体のCa2+電流に対してプレパルスは影響しなかった。錐体では、開口放出が生じないときに促通効果が生じ、細胞外液のpH(H+濃度)緩衝能力を高めるとプレパルス促通は消失したがL-AP4によるCa2+電流の抑制は残存した。錐体Ca2+電流の活性化キネティクスは、開口放出によって放出されたH+によるCa2+電流の抑制(自己H+フィードバック)によって遅くなる経路と、グループⅢ代謝型グルタミン酸受容体の活性化を介する経路によって、それぞれ別個に調節されることが明らかになった。
第6章では、本研究における結果を総合的に考察した。本研究では、錐体のグループⅢ代謝型グルタミン酸受容体が活性化されると、Ca2+電流が抑制されてグルタミン酸放出が減少することを新たに見出し、ON経路とOFF経路の両方の情報伝達に対して調節的役割を持っていることが明らかになった。また、錐体のCa2+電流のみがグループⅢ代謝型グルタミン酸受容体を介する調節と自己H+フィードバックによる調節を受けていることが明らかになった。これらの機構は、明順応状態における錐体機能の最適化に関与していると思われる。