語と語の間、詩行と詩行の間に深い意味の隔たりを置くユダヤ詩人パウル・ツェラン(1920-1970)の作品。-本論は、ツェランの詩作品を、顕在する静態的言語と、語間、行間の空白に潜在する動態的言語という非対称的二元性を具有させるテクストとして捉え、その互いに異質な二つの層が初期、中期、後期の三つの創作段階において、それぞれどのように関連しあいながら詩想を紡ぎだしていったのかを考察する。その際、言語を「方向」として感じ取ることを要請したツェランの言葉に従い、彼の詩語がテクストの中でどの「方向」を目指して運動性を表象しようとしているのかに注目し、表面的には不可視なテクストの動態をも枠組みに組み込んだ新しい<詩学>を鼎立させることを目的とする。
第一章では、ツェランの詩論的講演である『子午線』を、言語の運動性の観点から再読する。そこでは主題と語りの形式の両面において、一定方向に進行する直線的運動性と、そこに割って入り往還を繰り返す円環的運動性が並走しており、それは文脈の統一性を保持する言語作用と、その統一性を破壊し多様化しながらも言語の身振りにおいて再び統一性に回帰する言語作用と重なりあう。すなわち『子午線』からは、静態と動態、同一化と差異化、一義と多義という徹底的に非対称的な二元性を母胎として、そこから生成する詩作品、という<詩学>像が浮かび上がる。
続く章では、そのような<詩学>が実際の詩作の中でどのように現象しているのかを確認してゆく。第二章では、シュルレアリスムからの影響が争点となる初期作品を、<先行>という運動性が現れるモティーフに機軸に据えて再考した。そこでは、絶対的言語へ向かおうとする性急さを帯びた詩語が、外部への意味伝達という点で挫折した結果、二元的構造を必要とする<詩学>へと方向を転換したことが看取された。第三章は、『子午線』詩学の確立と時期を同じくする中期の作品が、しばしば<一>と<千>が互いに<呼応>するという運動性を描き出している点に注目し、一見ばらばらな文脈へと差異化された言語表現たちが、内的な志向性において類似性を露わにし、再び統合されるというモナド論的な<詩学>を定位した。しかし第四章は、詩作品があくまでも生き物のごとく一回的な生しか持たないという詩人の主張が色濃く滲み始めた後期作品の中に、二元性の均衡を破壊し、どちらか一方を<選択>することで動態を終息させようとする志向を読み取っていったが、そこには二元化したテクストという構想の不可能性が明らかとなったと言える。
本論は、近年ツェランの蔵書から発見されたライプニッツの『モナド論』とツェラン<詩学>の関係をひそかな軸としているが、そこからは、このような言語の二元的構造が、言語の恣意性と絶対性の間でみずからの偶然的な真実性を証明する唯一の方法論であることが明らかとなった。ゆえに、静態と動態を同時的には共存させ得ないツェラン<詩学>の限界は、言語の表象可能性の限界をも同時に物語る。しかし、語間、行間の意味の空白に言葉の「方向」が流れ始めることで、その意味的な隔たりは少しずつ距離を縮めてゆく。-互いに性質を異にする二つの次元は、言葉の内部でつねに具有されている。
第一章では、ツェランの詩論的講演である『子午線』を、言語の運動性の観点から再読する。そこでは主題と語りの形式の両面において、一定方向に進行する直線的運動性と、そこに割って入り往還を繰り返す円環的運動性が並走しており、それは文脈の統一性を保持する言語作用と、その統一性を破壊し多様化しながらも言語の身振りにおいて再び統一性に回帰する言語作用と重なりあう。すなわち『子午線』からは、静態と動態、同一化と差異化、一義と多義という徹底的に非対称的な二元性を母胎として、そこから生成する詩作品、という<詩学>像が浮かび上がる。
続く章では、そのような<詩学>が実際の詩作の中でどのように現象しているのかを確認してゆく。第二章では、シュルレアリスムからの影響が争点となる初期作品を、<先行>という運動性が現れるモティーフに機軸に据えて再考した。そこでは、絶対的言語へ向かおうとする性急さを帯びた詩語が、外部への意味伝達という点で挫折した結果、二元的構造を必要とする<詩学>へと方向を転換したことが看取された。第三章は、『子午線』詩学の確立と時期を同じくする中期の作品が、しばしば<一>と<千>が互いに<呼応>するという運動性を描き出している点に注目し、一見ばらばらな文脈へと差異化された言語表現たちが、内的な志向性において類似性を露わにし、再び統合されるというモナド論的な<詩学>を定位した。しかし第四章は、詩作品があくまでも生き物のごとく一回的な生しか持たないという詩人の主張が色濃く滲み始めた後期作品の中に、二元性の均衡を破壊し、どちらか一方を<選択>することで動態を終息させようとする志向を読み取っていったが、そこには二元化したテクストという構想の不可能性が明らかとなったと言える。
本論は、近年ツェランの蔵書から発見されたライプニッツの『モナド論』とツェラン<詩学>の関係をひそかな軸としているが、そこからは、このような言語の二元的構造が、言語の恣意性と絶対性の間でみずからの偶然的な真実性を証明する唯一の方法論であることが明らかとなった。ゆえに、静態と動態を同時的には共存させ得ないツェラン<詩学>の限界は、言語の表象可能性の限界をも同時に物語る。しかし、語間、行間の意味の空白に言葉の「方向」が流れ始めることで、その意味的な隔たりは少しずつ距離を縮めてゆく。-互いに性質を異にする二つの次元は、言葉の内部でつねに具有されている。