本研究は、不動産法制の基礎が形成された明治期の、不動産制度と不動産経営の実態に注目し、相互の関連性を明らかにしつつ、不動産経営が生成していく過程を解明することを目的とする。
第一部では、民法施行以前の、不動産貸借に関する法律・規則による規定と、東京府の土地移動状況と、それに伴って生じた紛争に対する裁判所の法的判断について検討を行う。
第一章「明治前期の不動産に関する法律・規則」では、三一年の民法施行以前の、不動産貸借に関する法律・規則について検討した。不動産貸借は、地主・家主と借地人・借家人間の契約と貸借方法に任されることとなり、差配人からは近世期の公的職務は失われ、地主の不動産経営を代行する私的職業となった。
第二章「明治一〇年代・二〇年代の東京府における土地移動」では、一〇年代の東京府における土地移動の特徴と、東京区部の不動産経営の収支状況を検討した。収入に占める地租負担は大きかったが、地代家賃を確実に徴収できれば、不動産経営は安定した利回りを得られる経営となった。東京府における土地売買、書質入は、一定規模の土地について行われており、零落した地主の土地売却・書質入による土地移動ではなかった。一九年以降、日本経済が好況に転じると、都市の土地は、公債・株式と比較して、良い利回りを得られる投資対象とみなされ、土地投資ブームが起きるほどになった。
第三章「不動産所有権と「借地権」と裁判」では、不動産貸借に関する訴訟件数と、不動産をめぐる対立点、「地所明渡請求」と「地代値上げ請求」に対する裁判所の法的判断を明らかにした。明治三一年の民法施行以前に、借地・借家に関する訴訟件数は増加しており、地主・家主と借地人・借家人間の「伝統的」な、情誼的貸借関係は既に解体しつつあった。「地所明渡請求」においては、「借地証」の借地期限の設定が、地主にとって重要な問題となり、土地の繁栄、公租公課の増加、隣地と比して妥当であれば、「地代値上げ請求」は認められるようになった。
第四章「三菱の不動産経営と裁判――明治前期の深川における不動産買入」では、買入地を自由に使用したい三菱の借地人の貸地明渡を検討した。一連の貸地明渡請求訴訟によって、借地人の建物が貸地明渡請求の阻害要因となることを知ると、以後、三菱では、土地買入の後に建物を買入れ、貸地明渡請求訴訟を回避するようになった。
第二部では、明治期に大規模な不動産を所有した、三井組と三菱を事例に、不動産投資と不動産経営の実態を明らかにする。
第五章「三井組における不動産経営の近代化――東京市街地の経営」では、三井組の不動産経営について、不動産所有の目的、経営状況、差配人、不動産貸借関係に注目して検討を行った。三井組では、火災を契機に借地人の選択を行い、「地位」上昇を図り、公租公課支出の一部を借地人負担へと改めていった。二四年以降、不動産経営の見直しを迫られると、近世来の慣習である「順役」による差配人の任命を廃止し、差配人の人事権を掌握し、不動産貸借を「恩恵的」関係から契約に基づく貸借関係へと移行し、確実に地代・家賃を徴収するようになった。
第六章「三菱社における不動産投資――東京府の土地買入と経営」では、明治になり新規に不動産買入を行った三菱の、不動産買入状況、経営状況を検討し、三菱社の払下基準を確認し、丸の内払下に関する通説となっている事項について再検討を行った。明治一〇年代の小作米収入を目的とした地主経営は不安定な経営であったため、三菱では、東京府の旧武家地地域を造成し、建物を建築し、実質的な地代価格の上昇を形成し、不動産経営を行った。丸の内払下決定には、改正「会計法」施行以前に払下を行おうとした陸軍省・政府側の事情が指摘できる。三菱社にとっては、丸の内の地価上昇はある程度は予想され、不要な置据建物の買取は事実上行わずに済み、払下に加えられた神田区三崎町での貸地・貸家経営は、既に周知の事業であり、丸の内でのビジネス街建築に着手する際の、危険の分散に、幾分かはなったといえよう。
第七章「三菱社における土地投資――新潟県中蒲原郡・西蒲原郡・南蒲原郡・北蒲原郡の土地買入と経営」では、三菱社の新潟県における土地経営について、土地買入方針、経営方法を明らかにした。三菱社では、大規模な土地への着目と詳細な利回り計算に基づき、土地買入を行った。三菱社新潟事務所では、未納米の削減と良米の受取を重視し、更に、蔵入米を有利に売却するため、精撰を行い、米の投機的取引を行った。
契約自由の原則が認められ、自由な不動産経営が可能となった地主は、土地所有権の自覚と実行に基づき、①地価と地代・家賃の価格形成、②差配人の人事権の掌握、③裁判による滞納処分を伴う地代・家賃の確保、を行うようになった。近世来の慣習を排除し、土地所有権と、契約に基づく不動産経営が行われるようになった点において、都市における不動産経営が生成した、といえよう。
第一部では、民法施行以前の、不動産貸借に関する法律・規則による規定と、東京府の土地移動状況と、それに伴って生じた紛争に対する裁判所の法的判断について検討を行う。
第一章「明治前期の不動産に関する法律・規則」では、三一年の民法施行以前の、不動産貸借に関する法律・規則について検討した。不動産貸借は、地主・家主と借地人・借家人間の契約と貸借方法に任されることとなり、差配人からは近世期の公的職務は失われ、地主の不動産経営を代行する私的職業となった。
第二章「明治一〇年代・二〇年代の東京府における土地移動」では、一〇年代の東京府における土地移動の特徴と、東京区部の不動産経営の収支状況を検討した。収入に占める地租負担は大きかったが、地代家賃を確実に徴収できれば、不動産経営は安定した利回りを得られる経営となった。東京府における土地売買、書質入は、一定規模の土地について行われており、零落した地主の土地売却・書質入による土地移動ではなかった。一九年以降、日本経済が好況に転じると、都市の土地は、公債・株式と比較して、良い利回りを得られる投資対象とみなされ、土地投資ブームが起きるほどになった。
第三章「不動産所有権と「借地権」と裁判」では、不動産貸借に関する訴訟件数と、不動産をめぐる対立点、「地所明渡請求」と「地代値上げ請求」に対する裁判所の法的判断を明らかにした。明治三一年の民法施行以前に、借地・借家に関する訴訟件数は増加しており、地主・家主と借地人・借家人間の「伝統的」な、情誼的貸借関係は既に解体しつつあった。「地所明渡請求」においては、「借地証」の借地期限の設定が、地主にとって重要な問題となり、土地の繁栄、公租公課の増加、隣地と比して妥当であれば、「地代値上げ請求」は認められるようになった。
第四章「三菱の不動産経営と裁判――明治前期の深川における不動産買入」では、買入地を自由に使用したい三菱の借地人の貸地明渡を検討した。一連の貸地明渡請求訴訟によって、借地人の建物が貸地明渡請求の阻害要因となることを知ると、以後、三菱では、土地買入の後に建物を買入れ、貸地明渡請求訴訟を回避するようになった。
第二部では、明治期に大規模な不動産を所有した、三井組と三菱を事例に、不動産投資と不動産経営の実態を明らかにする。
第五章「三井組における不動産経営の近代化――東京市街地の経営」では、三井組の不動産経営について、不動産所有の目的、経営状況、差配人、不動産貸借関係に注目して検討を行った。三井組では、火災を契機に借地人の選択を行い、「地位」上昇を図り、公租公課支出の一部を借地人負担へと改めていった。二四年以降、不動産経営の見直しを迫られると、近世来の慣習である「順役」による差配人の任命を廃止し、差配人の人事権を掌握し、不動産貸借を「恩恵的」関係から契約に基づく貸借関係へと移行し、確実に地代・家賃を徴収するようになった。
第六章「三菱社における不動産投資――東京府の土地買入と経営」では、明治になり新規に不動産買入を行った三菱の、不動産買入状況、経営状況を検討し、三菱社の払下基準を確認し、丸の内払下に関する通説となっている事項について再検討を行った。明治一〇年代の小作米収入を目的とした地主経営は不安定な経営であったため、三菱では、東京府の旧武家地地域を造成し、建物を建築し、実質的な地代価格の上昇を形成し、不動産経営を行った。丸の内払下決定には、改正「会計法」施行以前に払下を行おうとした陸軍省・政府側の事情が指摘できる。三菱社にとっては、丸の内の地価上昇はある程度は予想され、不要な置据建物の買取は事実上行わずに済み、払下に加えられた神田区三崎町での貸地・貸家経営は、既に周知の事業であり、丸の内でのビジネス街建築に着手する際の、危険の分散に、幾分かはなったといえよう。
第七章「三菱社における土地投資――新潟県中蒲原郡・西蒲原郡・南蒲原郡・北蒲原郡の土地買入と経営」では、三菱社の新潟県における土地経営について、土地買入方針、経営方法を明らかにした。三菱社では、大規模な土地への着目と詳細な利回り計算に基づき、土地買入を行った。三菱社新潟事務所では、未納米の削減と良米の受取を重視し、更に、蔵入米を有利に売却するため、精撰を行い、米の投機的取引を行った。
契約自由の原則が認められ、自由な不動産経営が可能となった地主は、土地所有権の自覚と実行に基づき、①地価と地代・家賃の価格形成、②差配人の人事権の掌握、③裁判による滞納処分を伴う地代・家賃の確保、を行うようになった。近世来の慣習を排除し、土地所有権と、契約に基づく不動産経営が行われるようになった点において、都市における不動産経営が生成した、といえよう。