児島虎次郎については、これまで大原美術館の基礎的コレクションを収集したことでは知られているが、画家としては日本近代美術史のなかでは傍流として扱われてきた。本件究では、児島虎次郎を画家として、また、美術品収集家として、さらには文化交流者としての3つの側面から分析し、以下の3部構成によってその全体像を捉えようとするものである。
まず、第1部の「児島虎次郎の生涯と画業」では次の3章、すなわち、第1章を生誕から東京美術学校時代まで、第2章を第1回ヨーロッパ留学時代まで、そして、第3章を帰国から死去に至るまでとして、虎次郎の生涯と画業を概観する。以上は主に松岡智子・時任英人共編著『児島虎次郎』に依拠したが、さらに当時のフランスの新聞・雑誌記事から、特に1920年代前半、虎次郎は色彩画家としてパリ画壇で有名だった事実を明らかにした。
また、第2部の「主要作品論-児島虎次郎と『構想画』」では、虎次郎の作品のなかから、東京美術学校時代の集大成である「なさけの庭」、フランス政府買い上げとなった「秋」、そして、明治神宮聖徳記念絵画館に飾られるはずだった未完の「対露宣戦布告御前会議」の3点を中心として、「構想画」の側面から考察を行い、画家児島虎次郎の見直しを試みようとするものである。
第4章で取り上げる「なさけの庭」は、1907(明治40)年に開催された東京勧業博覧会美術展に、東京美術学校西洋画科教授であった黒田清輝の勧めで出品し、西洋画部門で1等賞を獲得し皇室買い上げとなった虎次郎の出世作である。筆者はこの「なさけの庭」を、黒田の「智・感・情」に続く、西洋のキリスト教の「慈愛」の図像を発想源とした「構想画」であり、黒田の意図した「構想画」を最も忠実に実現させた作品として、明治洋画史のなかに位置づける必要があると指摘した。
続く第5章で挙げた「秋」は、第1回ヨーロッパ留学中、虎次郎はベルギーでエミール・クラウスの影響を強く受け、画風は「リュミニスム」へと大きく変貌し、さらにそれを日本の気候・風土に適応させようとして腐心した結果、成功した代表作である。また、朝鮮服を身につけ物思いに沈んだ表情を浮かべた少女の頬杖をつくポーズの発想限として、李王家博物館や朝鮮総督府美術館で虎次郎が見て強く印象に残ったと思われる「弥勒菩薩半迦思惟像」の手とかすかな微笑を挙げた。そして、西洋美術の図像の解釈では、常に他国の侵略に遭遇してきた「朝鮮」という国家の象徴であり、他方、東洋の仏教美術の図像の解釈では、「弥勒菩薩」すなわち、衆生と同苦し平和を模索する東洋の「慈悲」の象徴ともとれるような《ダブル・イメージ》を「秋」の図像にもたせたのではないかと考察した。
最後の6章で取り上げる「対露宣戦布告御前会議」は、虎次郎が初めて試みようとした本格的な「歴史画」であったが未完に終わった作品である。彼の下絵によれば、明治天皇を描くにあたって、西洋の聖画像的な表現様式、すなわち画面の中心に重要性を与える構図的ヒエラルキーや鑑賞者に向かう厳格な正面観を採用することによって、決定的な歴史的瞬間における天皇の絶対性を暗示したと思われる。そして、この図像の発想源として、エルトマン・フンメルが1817年、ポツダムにあるガルニソン教会の装飾プロジェクトのために依頼されて描いた「最後の晩餐」を挙げた。
さらに第3部の第7、8章では、児島虎次郎の美術品収集家としての側面に注目する。児島虎次郎の美術品収集の動機や「大原コレクション」の形成過程、及び内容の分析、さらには、背景にあると思われる美術品設立運動を理解することによって、当時における大原美術館設立の意義を明らかにした。そして、第9章では、これまで指摘されることがなかった、児島虎次郎の文化交流者としての側面を初めて浮き彫りにする。本章では新発見史料に基づき、1922年にパリで開催された「日本美術展」へ虎次郎の関わりと、翌年、交換展として日本で開催されるはずだった「フランス美術展」の経緯を詳細にたどった。
最後に「結び」では、画家として、美術品収集家として、そして、文化交流者として児島虎次郎を捉えた時、それらに共通して見られる視座について論じる。虎次郎はいずれの側面においても「複眼的視座」をもった、極めて独創的な「単独行者」であり、「両洋」の具体化を追い求めた芸術家であったと言える。