本論文は、本来心理療法であり、常に経験科学を自称する分析心理学(ユング心理学)が、しばしば形而上学的であると言われ、さらには神学的であると批判的に言及されるのは何故なのか、その必然性を明らかにしようという試みである。
分析心理学が「宗教的」であるのは広く認められているところであるが、それが宗教そのものであるという指摘も批判的意図をこめてなされることがある。分析心理学が宗教的であると言われる場合には、概して、分析心理学の臨床実践における治癒をもたらす内面的体験が念頭に置かれていると言える。このように、宗教の心理療法的機能を分析心理学が引き継ぐというのはユング自身も自覚していたことであるが、これによって分析心理学が宗教の実践に接近することが示される。
次に、分析心理学が「神学的」であると評される文脈が分析される。方法論的には、フロイトなどの還元的な宗教分析に対抗する形で、ユングが宗教的、擬人的カテゴリーを分析に持ち込むことによって神学的傾向が生じる。「神」は心理学的には「自己」に対応するという論理が、ユングの心理学を神学的にする。治療と直結する内的体験をもたらすシステムとして宗教を見る見解と、その応用としてのキリスト教論には分裂があり、前者においては神学者との良好な協働関係が築けるが、後者においてユングは、形而上学的または神学的という謗りを受けるという構図が確認される。
次に、ユングによれば世界観には本能的衝動をコントロールする働きがあり、、分析心理学は積極的にキリスト教の世界観理解に関与し、自らも患者のよき世界観の構築に関与する。心理学がこのようなキリスト教の神話を語り直す作業に関わっていくことで神学の領域に近付くことになることが示される。
分析心理学がすぐれて世界観的営みであることを決定づけている自伝である。ユングはこの中で私的な宗教体験から学問的思索、さらには死後の生命の存続などを一体のものとして語り、ユング自身の人生が神話的パラダイムとして提示されている。
次に、ユングが十九世紀のドイツ・プロテスタンティズム思想をどのように受け止めたのかが検討される。学生時代の講演においてユングは神を体験することの必要性を訴え、倫理主義的なリッチュルの神学を批判した。ユングは体験対信仰、神秘対倫理といった対立軸でキリスト教を考えていたことがわかる。
次に、ユングの宗教観に対してフロイトとの出会いと決別が果たした意味が検討される。「情動をイメージに変換する」というテクニックを見出したことを評価した。無意識のエネルギーを適切に表現して人間を直接体験から保護することが宗教の果たしてきた役割であるが、この観点から、プロテスタントよりもカトリックのキリスト教を評価するユングの議論が概観される。この評価が必ずしもキリスト教の自己評価とは一致しないことも、ユングを神学との対立関係に巻き込むことになる。
ユングが「情動をイメージに変換する」という技法をもとに定式化したのが、『自我と無意識の概念』に述べられる個体化過程のプロセスであり、この定式化に際して、ユングがグノーシス主義の神話の枠組みを借用したことが明らかにされる。ユングはグノーシス主義に触発されて個体化論を定式化したことは確かであるが、最終的には錬金術の象徴論によって理論を修正した可能性が示される。しかしいずれにせよ、分析心理学がその主要概念の形成を宗教的カテゴリーに依存していることが明らかになる。
代表的なユング批判として、ブーバーによる批判をとりあげた。ユングは「心的現実」の立場を採用したことで、自由に「神」を語る資格を得たと考えていたが、反面、まさにそのことが神学への領域侵犯と見做されたという構図が示される。ブーバーはユングが神を心内的なものに貶めたとしてユングをグノーシス主義者と呼んだが、ユングの心的現実という方法論が持つ独我論的性質は否定しがたく、ユングの体系が他者性に対して開かれていないという批判の妥当性は認めざるを得ないであろう。一方で、ユングが善悪の相対主義に陥るという批判の妥当性は限定的なものであることは、ユングの「良心論」を参照することで示された。また、本来心理学的な自己限定と表裏一体をなす「心的現実」の立場が結局、形而上学的発言と衝突してしまうということは、分析心理学がいかに経験科学を自称しようと、世界観という次元で扱われるという事態を表わしている。この点において分析心理学は、科学というよりもむしろ神話と呼ばれるべき側面を有することが明らかになる。
最後に、カトリックの神学者ホワイトとの対話を通してユングの宗教論を検討した最後に、『ヨブへの答え』で展開されるユングの「神学」の性質を検討し、ユングの著作がなぜ神学的傾向を帯びるのかを総合的に検討した。