本論文は、現代の文化政策の諸事例に見出せる社会学的諸問題を検討している。こうした問題に取り組む際の背景的関心としては、ヴェーバーからハーバマスにいたる文化的貧困化論の問題提起がある。すなわち、実存的意味を喪失するプロセスとしての近代化の現状を、文化的領域を支える諸制度の変容のうちに見出すという目的が、本論文の背景的問題関心として存在する。本論文はこのような目的のために、文化的生産活動を支えるシステムの一つである文化政策という領域に注目し、文化的貧困化論の問題がより具体的な形で現れたものとして、文化的公共性および共同性の問題と、文化の有用化の問題に焦点を当てた。
そこでまず検討されたのが、公共圏構築の問題に直接結びつく、文化の統合機能の問題である。文化の共有、あるいは文化的価値理念についての合意は、人々に集合的アイデンティティを提供するという形で、社会の安定的運営に関してのみならず、実存的意味の涵養にも寄与しうる。この点について、本論文は、グラムシ主義的な戦略の下で大規模に展開された1980年代のフランスの文化政策に注目し、社会の文化的統合を意識レベルでの積極的な合意形成と理解することに疑義を呈した。文化レベルでの社会の統合と認識される事態とは、何らかの積極的な共通の意志や価値観が、強固なものとして人々のあいだで現実に共有されているということではなく、文化に関する諸制度や、それに基づいた政策実行がある程度自明視されているという事態が成立していることだという見解が、本論文では示された。
このような意識や価値、理念の非共有としての社会の文化的統合という状況は、社会の情報化によって、より明確なものになっている。すなわち、現代では物理的・地理的空間と、通信メディアに依存したコミュニケーション・ネットワークが合致しないために、地域社会を共同性の基盤とみなすことはできなくなっている。本論文では、この問題の検討のため、沖縄県の事例に注目した。沖縄は、一般的には現在でも共同体に根差した伝統文化が息づいている地域として理解されている。しかしそのような沖縄という地域においても、伝統文化活動は一部の公共的な使命感を抱かざるをえない人々による強力な活性化によって維持・再開発されているされているのであって、前近代的な意味合いでの文化の共有がなされているわけではない。
さらにこの見解を確認するために、本論文では栃木県と群馬県における地域文化政策の事例が比較された。すなわち、地域社会での文化的価値の共有が困難であるという状況において、地域文化政策はいかなる根拠をもって正当化されるのかが検討された。その結果指摘されたのは、価値観の相違を埋めるために万人に共有可能な“わかりやすさ”によって文化政策を正当化しようとする試みは、結果的に成功しない可能性が高いこと、そのように政策によって支援される文化活動の内容的価値を共有することを目指すのではなく、むしろ内容の共通理解可能性を犠牲にしても、文化政策の実施にあたっての理念と方針を明示し、説明責任を徹底するという方向性のほうが正当性を得られやすいということだった。つまり手続による正当化が、現代の文化政策の実施においては重要だと考えられる。
以上のような文化と公共性との関係についての議論を経た後、本論文では文化の有用化、すなわち文化的資源を何らかの社会目的のために効果的に活用しようとする傾向をめぐる問題がとりあげられた。こうした傾向は近年、先進社会の文化政策において、説明責任を求める声の強まりなどにより顕著なものとなってきているが、この有用化が経営合理性の観点から強化されることは、文化の自律性を弱体化させる恐れがある。すなわち、文化的活動とその受容は、いわばその“役に立たなさ”、すなわち非有用性こそが特色であるにもかかわらず、その文化的活動を機能的に従属させることが重要案件になる、という事態が生じうるのである。
また、本論文は現代日本の文化政策の淵源と考えられる問題である、明治期の文化政策と、最新の状況としての、文化に関する基本法の制定という二つの事例を概観した。この二つの異なる時期の文化政策を考慮してみて明確になったのは、日本社会においては、未だ文化に関する自明視されうるような理念(制度論における「合理的神話」)を行政制度の内部において確立できず、その結果文化の問題が制度論的・組織論的要因の影響を受けて自律的に機能できない状況にあるということである。これらの問題の検討を経て明確になったのは、文化的領域の相対的自律性の脆弱さだといえる。文化的領域がその外部の論理に従属するという事態が、経営合理性や行政上の都合のもとに積極的に肯定されるという状況は、単に文化の領域にとどまらない問題を内包しているのではないかと考えられる。
本論文の最後では、残された課題として、第一に、文化政策の実施効果を検証するための、妥当な手法を開発すること、第二に、文化政策における文化的表現の取捨選択という政治的判断と、民主主義的手続とのあいだの関係についての評価基準の検討が挙げられた。
そこでまず検討されたのが、公共圏構築の問題に直接結びつく、文化の統合機能の問題である。文化の共有、あるいは文化的価値理念についての合意は、人々に集合的アイデンティティを提供するという形で、社会の安定的運営に関してのみならず、実存的意味の涵養にも寄与しうる。この点について、本論文は、グラムシ主義的な戦略の下で大規模に展開された1980年代のフランスの文化政策に注目し、社会の文化的統合を意識レベルでの積極的な合意形成と理解することに疑義を呈した。文化レベルでの社会の統合と認識される事態とは、何らかの積極的な共通の意志や価値観が、強固なものとして人々のあいだで現実に共有されているということではなく、文化に関する諸制度や、それに基づいた政策実行がある程度自明視されているという事態が成立していることだという見解が、本論文では示された。
このような意識や価値、理念の非共有としての社会の文化的統合という状況は、社会の情報化によって、より明確なものになっている。すなわち、現代では物理的・地理的空間と、通信メディアに依存したコミュニケーション・ネットワークが合致しないために、地域社会を共同性の基盤とみなすことはできなくなっている。本論文では、この問題の検討のため、沖縄県の事例に注目した。沖縄は、一般的には現在でも共同体に根差した伝統文化が息づいている地域として理解されている。しかしそのような沖縄という地域においても、伝統文化活動は一部の公共的な使命感を抱かざるをえない人々による強力な活性化によって維持・再開発されているされているのであって、前近代的な意味合いでの文化の共有がなされているわけではない。
さらにこの見解を確認するために、本論文では栃木県と群馬県における地域文化政策の事例が比較された。すなわち、地域社会での文化的価値の共有が困難であるという状況において、地域文化政策はいかなる根拠をもって正当化されるのかが検討された。その結果指摘されたのは、価値観の相違を埋めるために万人に共有可能な“わかりやすさ”によって文化政策を正当化しようとする試みは、結果的に成功しない可能性が高いこと、そのように政策によって支援される文化活動の内容的価値を共有することを目指すのではなく、むしろ内容の共通理解可能性を犠牲にしても、文化政策の実施にあたっての理念と方針を明示し、説明責任を徹底するという方向性のほうが正当性を得られやすいということだった。つまり手続による正当化が、現代の文化政策の実施においては重要だと考えられる。
以上のような文化と公共性との関係についての議論を経た後、本論文では文化の有用化、すなわち文化的資源を何らかの社会目的のために効果的に活用しようとする傾向をめぐる問題がとりあげられた。こうした傾向は近年、先進社会の文化政策において、説明責任を求める声の強まりなどにより顕著なものとなってきているが、この有用化が経営合理性の観点から強化されることは、文化の自律性を弱体化させる恐れがある。すなわち、文化的活動とその受容は、いわばその“役に立たなさ”、すなわち非有用性こそが特色であるにもかかわらず、その文化的活動を機能的に従属させることが重要案件になる、という事態が生じうるのである。
また、本論文は現代日本の文化政策の淵源と考えられる問題である、明治期の文化政策と、最新の状況としての、文化に関する基本法の制定という二つの事例を概観した。この二つの異なる時期の文化政策を考慮してみて明確になったのは、日本社会においては、未だ文化に関する自明視されうるような理念(制度論における「合理的神話」)を行政制度の内部において確立できず、その結果文化の問題が制度論的・組織論的要因の影響を受けて自律的に機能できない状況にあるということである。これらの問題の検討を経て明確になったのは、文化的領域の相対的自律性の脆弱さだといえる。文化的領域がその外部の論理に従属するという事態が、経営合理性や行政上の都合のもとに積極的に肯定されるという状況は、単に文化の領域にとどまらない問題を内包しているのではないかと考えられる。
本論文の最後では、残された課題として、第一に、文化政策の実施効果を検証するための、妥当な手法を開発すること、第二に、文化政策における文化的表現の取捨選択という政治的判断と、民主主義的手続とのあいだの関係についての評価基準の検討が挙げられた。