問題設定と方法論
本論文は、イスラーム思想における聖典観の一側面を探ることを目的としている。クルアーン(コーラン)はそのなかで自らがどのような存在であるのかに関して、繰り返し言及している。つまり、自らがアッラーからの言葉であり、ムハンマドに下された「キターブ」であると述べているのである。「キターブ」とは「書かれたもの」という基本的な意味を持ち、よって「書物」「聖典」を表現するアラビア語の単語である。本論文はこのクルアーンの自己認識に注目した。そしてこれらの句がクルアーン解釈書のなかでどのように解釈されているのかを分析することで、イスラームの聖典観を解明することを目指した。
これまでの研究史においても、このような自己認識の句に焦点を当てる論考がいくつか存在する。それらは、これらの句がどのような歴史的背景を持つのかという起源を探る関心(メソポタミア文明やユダヤ・キリスト教にさかのぼる)や、クルアーンそのものの言語分析によって意味を確定しようとする関心によるものであった。だが本論文の関心の中心は、これらの句がムスリム思想家たちにどのように解釈されたのかを探るという新しいものである。このような視点を設定したことによって、これまでの研究史を踏まえながら、イスラームの聖典観に関してさらなる知見を付け加えることができたと考えている。
本論文で用いたアラビア語原典の文献は、主に中世スンナ派のクルアーンの解釈書(タフスィール)である。タバリー、ザマフシャリー、ラーズィー、バイダーウィー、イブン・カスィール、スユーティーという重要な解釈者たちの文献を取り上げた。またこれらに加え、歴史書や伝承集、クルアーン学文献を適宜用いた。
内容要約
まず序論では問題設定と研究史・方法論に関して論じた。クルアーンが「キターブ」であると自認していることに着目し、中東世界における「書くこと」や「書かれたもの」をめぐる書記文化の重要性を指摘した。イスラームは、世界最古の書記技術を発展させたメソポタミア文明に端を発しユダヤ・キリスト教文化を経た、「書くこと」や「書かれたもの」に関する概念を継承している。それは運命が「天の書」にあらかじめ書かれているとする概念や、また天に聖典があるとするもので、クルアーンにもこの概念を受け継いでいると考えられる。またクルアーンは、モーセの律法やイエスの福音書もキターブ(聖典)だと繰り返し言及している。クルアーンの「キターブ」観はこの影響を受けつつ、独自の展開を見せたものである。また研究史・方法論に関しては前述したとおりである。
第一章「クルアーンにとっての『書くこと』と『書かれたもの』」では、クルアーンという聖典の成り立ちの経緯から「キターブ」であるということの意味を探り、さらにそのなかで描かれる自己認識に関する句の分析を行った。第一節「クルアーンの結集:啓示が書物になるまで」では口承によっていたクルアーンの伝達が、ムハンマドの死後、必要にかられて書承に移行したことの意味を検討し、クルアーンが「書物」となったことへの正当化が必要となった歴史的背景を明らかにした。第二節「クルアーンに見られる啓示:その体験と現象」と第三節「クルアーンに見られる『書くこと』と『書かれたもの』」では、クルアーンの句を啓示の時系列を考慮しながら分析した。アッラーの言葉そのものの自己認識は啓示と「キターブ」という2つの概念からなり、時代が下るにつれてキターブが下されたという概念が明確になっているということが明らかになった。また「キターブ」はクルアーン以外に、「天の書」や「記録の書」という特別な「書かれたもの」に対しても用いられ、これらは互いに関係しているがクルアーンでは明瞭に定義づけなされていないということが明らかになった。
第二章「タフスィール文献に見られる書記道具と『書かれたもの』」では、第一章で検討した句のなかで、特に「天の書」に関連する句に注目し、それらがいかに解釈されているのかを明らかにした。第一節「天にある書記道具」ではクルアーンで言及される「筆」が天においては「天の書」に運命を書き込む役割を与えられていることを明らかにした。またこの筆による書き込みは天地創造以前になされたとも解釈され、一種の神話の様相を呈している。第二節「『クルアーンの原型』としての『天の書』(『護られた書板』)」では「天の書」をクルアーンの原型ととらえる句の解釈、第三節「『運命の書』としての『天の書』(『護られた書板』)」では「天の書」に運命が書き込まれているとする句の解釈、第四節「『記録の書』」では人間の行為が天使によって全て記録されているとする句の解釈を分析し、その変遷を明らかにした。最後の第五節「『天の書』と『記録の書』」では、運命が予定されていることの象徴である「天の書」と人間の自由意志を示唆する「記録の書」の関係がいかなるものなのかという疑問に基づき、これを示唆する句の解釈を分析した。以上から、クルアーンと人間の運命はあらかじめ「天の書」に書かれ、さらに人間行為の記録も実は「天の書」に書かれているとする解釈が成立していることが明らかになった。また時代が下るにつれて「天の書」概念が強化、具体化され、同時に全ての情報がここに一元化される傾向が生じていることも解明できた。
第三章「タフスィール文献に見られる『天の書』とクルアーンの関係」では、「天の書」をクルアーンの原型とする見解を示唆する句の解釈を分析した。第一節「二段階降下理論」では、主にクルアーン学文献を用い、クルアーンが啓示された経緯に関する3つの理論を比較検討し、最終的に正当と認められている理論の特徴を明らかに。それは啓示の経緯を、「天の書」から最下天へ一度にまとめて下された第一段階と、最下天から地上に分割されて適宜下された第二段階に分ける理論である。これは啓示がムハンマドに断続して下されたという実際の状況を認めつつ、元来クルアーンは「天の書」から一度に下されたと主張することを可能としている理論だと言える。第二節「天から地へのクルアーンの『降下』」では、その第二段階に関して述べているとされるクルアーンの句の解釈を分析した。ここでは、先行預言者であるモーセには一度に「キターブ」が下されたことと比較する意識が強く働いている。そしてムハンマドには分割されて下されたことに関しては、諸状況に対応した啓示内容となるなどの有益性を解釈として読み込んでいる。第三節「『降下』と『カドルの夜』:『天の書』から最下天へ」では、第一段階に関する句の解釈を分析した。それは特に、クルアーンが下された暦に関する3つの句で、それぞれ「ラマダーン月」「カドルの夜」「祝福された夜」に下されたとしている。これらは解釈書では地上に下された時を示す暦ではなく、「天の書」から最下天に下された時を示すものとされている。これらの句の解釈として、「カドルの夜」が「ラマダーン月」に含まれるということには異論はなかったが、「祝福された夜」がいつなのかに関しては異なる見解があった。だがこの夜を「シャアバーン月15夜」(ユダヤ教の新年に当たる)とする解釈は否定され、「カドルの夜」とする合意が生じている。この背景にある意識は次のようなものだと考えられる。この啓示の第一段階ではクルアーンはモーセ同様に一度にまとめて下されているという前提に基づいているため、これら3つの異なる暦が同一のものとして解釈する必要が生じたのであろう。また最下天にクルアーンが下された時が「カドルの夜」だとする解釈を支持する理由として、「カドルの夜」に運命(カダル)が定められるからだとする解釈も見られる。この運命もまた「天の書」に書かれているものであり、クルアーンが「天の書」から下された夜であることを説明するために有効だと考えられたのであろう。
結論
クルアーンがいかなる聖典であるのかという問題を考えるにあたって、本論文ではそれが「書かれたもの=キターブ」であることに焦点を当て、その答えの一端を明らかにすることを試みた。クルアーンのなかには、それ自身が元来「天のキターブ」にあり、そこから下された「キターブ」であることを示唆する句がいくつも含まれているが、曖昧な叙述であるものが多い。その不明瞭な点に解釈を加えクルアーンの存在を意味づけることが、解釈書つまりタフスィール文献においてなされてきた。クルアーンは独自の意味づけを担う「書かれたもの」としてとらえられている。それは「護られた書板」という名のもとで確立された「天の書」の概念の形成に拠っていると考えられる。
この「天の書」には2つの性質がある。1つは「クルアーンの原型」であること、もう1つは全事象が予め書き定められている「運命の書」であることである。クルアーンの記述ではこの2つの性質を持つキターブが同一の存在としては明言されていない。だがタフスィールにおいてはこれらが同一の「書かれたもの」と解釈されるようになっていることが明らかになった。タバリーのタフスィールではこの同一性の確立が未成熟であることをうかがわせる記述も見られたが、それ以降のタフスィールでは同一の存在であるとの解釈が明確に示されていたのである。
またこの「天の書」の一元化の動きは、それが「運命の書」であるという側面の枠内でも生じていると言うことができるのではないだろうか。このことは、人間の意志と責任を象徴する「記録の書」の内容が、人間の意志の否定を象徴する「天の書」に含まれていたとする解釈の存在から見て取ることができる。ここには運命の絶対性を強調しようとする意識がうかがえ、それによって「天の書」の包括的存在としての絶対化がなされていると考えられるのである。
さらに「天の書」とクルアーンの関係も「一元化」と表現することができるかもしれない。なぜならば、クルアーンも「天の書」に含まれているとされているからである。このことは二段階降下理論によって支えられている。この理論の存在の背後にはクルアーンが「キターブ」であることを正当化する意図があると考えられる。この理論はクルアーンが分割されて断続的に下されたという現実と、天にある「書かれたもの」を原型として持つという理想を折衷したものだと言える。この理想を持つことでクルアーンは元来「書かれたもの」であることを正当化できるのである。
クルアーンが「書かれたもの」でなくてはならなかった理由は2つ考えられる。1つは先行聖典(=キターブ)と同様のものとして自らの存在を定義付ける必要があったということであろう。これはクルアーンの句のなかにすでに見られていた意識の継承である。さらにもう1つは、クルアーン自身が口承の段階から書承を含む段階に移行していったという、その結集以降の現実と関係すると考えられる。クルアーンが実際に完結し構成を持った「書物」となった現実を正当化することができるのが「天の書」の存在だと考えられたのではないだろうか。
このことは次のようにも言うことができるだろう。「天の書」を設定したことで、アッラーの知識の伝達構造は、言葉から書物へという構造から、書物から書物へという極めて書物を重視する構造に変化した。そしてそこに寄り添っているのが運命論である。全ての事柄が予め書き込まれているという「天の書」を設定し、そこにクルアーンも含まれているとすることでその書物性を強調した後、クルアーンが現実の書物となるにあたって、やはり運命(カダル)が定められると考えられる日が選ばれているとする発想には、クルアーンという聖典が「運命の書」に根ざすことと深くつながっていると考えられるのである。
このようにイスラームの聖典クルアーンは、それが「書かれたもの」であることを十二分に強調された存在論―「存在神話」と呼べるかもしれない―を持ち、この側面からもその聖典性を保証されている。この存在論は、主にユダヤ教やキリスト教の聖典イメージを受け継ぎながら、それを独自の枠組みのなかで理論化したものである。それは神の言葉が「書かれたもの」であることを最初から意識していた宗教の思想上の必然的な帰結であるとも言えよう。
本論文は、イスラーム思想における聖典観の一側面を探ることを目的としている。クルアーン(コーラン)はそのなかで自らがどのような存在であるのかに関して、繰り返し言及している。つまり、自らがアッラーからの言葉であり、ムハンマドに下された「キターブ」であると述べているのである。「キターブ」とは「書かれたもの」という基本的な意味を持ち、よって「書物」「聖典」を表現するアラビア語の単語である。本論文はこのクルアーンの自己認識に注目した。そしてこれらの句がクルアーン解釈書のなかでどのように解釈されているのかを分析することで、イスラームの聖典観を解明することを目指した。
これまでの研究史においても、このような自己認識の句に焦点を当てる論考がいくつか存在する。それらは、これらの句がどのような歴史的背景を持つのかという起源を探る関心(メソポタミア文明やユダヤ・キリスト教にさかのぼる)や、クルアーンそのものの言語分析によって意味を確定しようとする関心によるものであった。だが本論文の関心の中心は、これらの句がムスリム思想家たちにどのように解釈されたのかを探るという新しいものである。このような視点を設定したことによって、これまでの研究史を踏まえながら、イスラームの聖典観に関してさらなる知見を付け加えることができたと考えている。
本論文で用いたアラビア語原典の文献は、主に中世スンナ派のクルアーンの解釈書(タフスィール)である。タバリー、ザマフシャリー、ラーズィー、バイダーウィー、イブン・カスィール、スユーティーという重要な解釈者たちの文献を取り上げた。またこれらに加え、歴史書や伝承集、クルアーン学文献を適宜用いた。
内容要約
まず序論では問題設定と研究史・方法論に関して論じた。クルアーンが「キターブ」であると自認していることに着目し、中東世界における「書くこと」や「書かれたもの」をめぐる書記文化の重要性を指摘した。イスラームは、世界最古の書記技術を発展させたメソポタミア文明に端を発しユダヤ・キリスト教文化を経た、「書くこと」や「書かれたもの」に関する概念を継承している。それは運命が「天の書」にあらかじめ書かれているとする概念や、また天に聖典があるとするもので、クルアーンにもこの概念を受け継いでいると考えられる。またクルアーンは、モーセの律法やイエスの福音書もキターブ(聖典)だと繰り返し言及している。クルアーンの「キターブ」観はこの影響を受けつつ、独自の展開を見せたものである。また研究史・方法論に関しては前述したとおりである。
第一章「クルアーンにとっての『書くこと』と『書かれたもの』」では、クルアーンという聖典の成り立ちの経緯から「キターブ」であるということの意味を探り、さらにそのなかで描かれる自己認識に関する句の分析を行った。第一節「クルアーンの結集:啓示が書物になるまで」では口承によっていたクルアーンの伝達が、ムハンマドの死後、必要にかられて書承に移行したことの意味を検討し、クルアーンが「書物」となったことへの正当化が必要となった歴史的背景を明らかにした。第二節「クルアーンに見られる啓示:その体験と現象」と第三節「クルアーンに見られる『書くこと』と『書かれたもの』」では、クルアーンの句を啓示の時系列を考慮しながら分析した。アッラーの言葉そのものの自己認識は啓示と「キターブ」という2つの概念からなり、時代が下るにつれてキターブが下されたという概念が明確になっているということが明らかになった。また「キターブ」はクルアーン以外に、「天の書」や「記録の書」という特別な「書かれたもの」に対しても用いられ、これらは互いに関係しているがクルアーンでは明瞭に定義づけなされていないということが明らかになった。
第二章「タフスィール文献に見られる書記道具と『書かれたもの』」では、第一章で検討した句のなかで、特に「天の書」に関連する句に注目し、それらがいかに解釈されているのかを明らかにした。第一節「天にある書記道具」ではクルアーンで言及される「筆」が天においては「天の書」に運命を書き込む役割を与えられていることを明らかにした。またこの筆による書き込みは天地創造以前になされたとも解釈され、一種の神話の様相を呈している。第二節「『クルアーンの原型』としての『天の書』(『護られた書板』)」では「天の書」をクルアーンの原型ととらえる句の解釈、第三節「『運命の書』としての『天の書』(『護られた書板』)」では「天の書」に運命が書き込まれているとする句の解釈、第四節「『記録の書』」では人間の行為が天使によって全て記録されているとする句の解釈を分析し、その変遷を明らかにした。最後の第五節「『天の書』と『記録の書』」では、運命が予定されていることの象徴である「天の書」と人間の自由意志を示唆する「記録の書」の関係がいかなるものなのかという疑問に基づき、これを示唆する句の解釈を分析した。以上から、クルアーンと人間の運命はあらかじめ「天の書」に書かれ、さらに人間行為の記録も実は「天の書」に書かれているとする解釈が成立していることが明らかになった。また時代が下るにつれて「天の書」概念が強化、具体化され、同時に全ての情報がここに一元化される傾向が生じていることも解明できた。
第三章「タフスィール文献に見られる『天の書』とクルアーンの関係」では、「天の書」をクルアーンの原型とする見解を示唆する句の解釈を分析した。第一節「二段階降下理論」では、主にクルアーン学文献を用い、クルアーンが啓示された経緯に関する3つの理論を比較検討し、最終的に正当と認められている理論の特徴を明らかに。それは啓示の経緯を、「天の書」から最下天へ一度にまとめて下された第一段階と、最下天から地上に分割されて適宜下された第二段階に分ける理論である。これは啓示がムハンマドに断続して下されたという実際の状況を認めつつ、元来クルアーンは「天の書」から一度に下されたと主張することを可能としている理論だと言える。第二節「天から地へのクルアーンの『降下』」では、その第二段階に関して述べているとされるクルアーンの句の解釈を分析した。ここでは、先行預言者であるモーセには一度に「キターブ」が下されたことと比較する意識が強く働いている。そしてムハンマドには分割されて下されたことに関しては、諸状況に対応した啓示内容となるなどの有益性を解釈として読み込んでいる。第三節「『降下』と『カドルの夜』:『天の書』から最下天へ」では、第一段階に関する句の解釈を分析した。それは特に、クルアーンが下された暦に関する3つの句で、それぞれ「ラマダーン月」「カドルの夜」「祝福された夜」に下されたとしている。これらは解釈書では地上に下された時を示す暦ではなく、「天の書」から最下天に下された時を示すものとされている。これらの句の解釈として、「カドルの夜」が「ラマダーン月」に含まれるということには異論はなかったが、「祝福された夜」がいつなのかに関しては異なる見解があった。だがこの夜を「シャアバーン月15夜」(ユダヤ教の新年に当たる)とする解釈は否定され、「カドルの夜」とする合意が生じている。この背景にある意識は次のようなものだと考えられる。この啓示の第一段階ではクルアーンはモーセ同様に一度にまとめて下されているという前提に基づいているため、これら3つの異なる暦が同一のものとして解釈する必要が生じたのであろう。また最下天にクルアーンが下された時が「カドルの夜」だとする解釈を支持する理由として、「カドルの夜」に運命(カダル)が定められるからだとする解釈も見られる。この運命もまた「天の書」に書かれているものであり、クルアーンが「天の書」から下された夜であることを説明するために有効だと考えられたのであろう。
結論
クルアーンがいかなる聖典であるのかという問題を考えるにあたって、本論文ではそれが「書かれたもの=キターブ」であることに焦点を当て、その答えの一端を明らかにすることを試みた。クルアーンのなかには、それ自身が元来「天のキターブ」にあり、そこから下された「キターブ」であることを示唆する句がいくつも含まれているが、曖昧な叙述であるものが多い。その不明瞭な点に解釈を加えクルアーンの存在を意味づけることが、解釈書つまりタフスィール文献においてなされてきた。クルアーンは独自の意味づけを担う「書かれたもの」としてとらえられている。それは「護られた書板」という名のもとで確立された「天の書」の概念の形成に拠っていると考えられる。
この「天の書」には2つの性質がある。1つは「クルアーンの原型」であること、もう1つは全事象が予め書き定められている「運命の書」であることである。クルアーンの記述ではこの2つの性質を持つキターブが同一の存在としては明言されていない。だがタフスィールにおいてはこれらが同一の「書かれたもの」と解釈されるようになっていることが明らかになった。タバリーのタフスィールではこの同一性の確立が未成熟であることをうかがわせる記述も見られたが、それ以降のタフスィールでは同一の存在であるとの解釈が明確に示されていたのである。
またこの「天の書」の一元化の動きは、それが「運命の書」であるという側面の枠内でも生じていると言うことができるのではないだろうか。このことは、人間の意志と責任を象徴する「記録の書」の内容が、人間の意志の否定を象徴する「天の書」に含まれていたとする解釈の存在から見て取ることができる。ここには運命の絶対性を強調しようとする意識がうかがえ、それによって「天の書」の包括的存在としての絶対化がなされていると考えられるのである。
さらに「天の書」とクルアーンの関係も「一元化」と表現することができるかもしれない。なぜならば、クルアーンも「天の書」に含まれているとされているからである。このことは二段階降下理論によって支えられている。この理論の存在の背後にはクルアーンが「キターブ」であることを正当化する意図があると考えられる。この理論はクルアーンが分割されて断続的に下されたという現実と、天にある「書かれたもの」を原型として持つという理想を折衷したものだと言える。この理想を持つことでクルアーンは元来「書かれたもの」であることを正当化できるのである。
クルアーンが「書かれたもの」でなくてはならなかった理由は2つ考えられる。1つは先行聖典(=キターブ)と同様のものとして自らの存在を定義付ける必要があったということであろう。これはクルアーンの句のなかにすでに見られていた意識の継承である。さらにもう1つは、クルアーン自身が口承の段階から書承を含む段階に移行していったという、その結集以降の現実と関係すると考えられる。クルアーンが実際に完結し構成を持った「書物」となった現実を正当化することができるのが「天の書」の存在だと考えられたのではないだろうか。
このことは次のようにも言うことができるだろう。「天の書」を設定したことで、アッラーの知識の伝達構造は、言葉から書物へという構造から、書物から書物へという極めて書物を重視する構造に変化した。そしてそこに寄り添っているのが運命論である。全ての事柄が予め書き込まれているという「天の書」を設定し、そこにクルアーンも含まれているとすることでその書物性を強調した後、クルアーンが現実の書物となるにあたって、やはり運命(カダル)が定められると考えられる日が選ばれているとする発想には、クルアーンという聖典が「運命の書」に根ざすことと深くつながっていると考えられるのである。
このようにイスラームの聖典クルアーンは、それが「書かれたもの」であることを十二分に強調された存在論―「存在神話」と呼べるかもしれない―を持ち、この側面からもその聖典性を保証されている。この存在論は、主にユダヤ教やキリスト教の聖典イメージを受け継ぎながら、それを独自の枠組みのなかで理論化したものである。それは神の言葉が「書かれたもの」であることを最初から意識していた宗教の思想上の必然的な帰結であるとも言えよう。